、単なる形式主義の偏執であつて、早晩訂正しなければならぬ方法でありさうだ。蕃族は、語序が日本及び琉球と違つて居る。更に南方の日本委任統治の島々から、蘭領印度地方に考へ及すと、語序は全く相違して居る様であるが、単に見た上の考へ方で、根柢の一致は多く求めることが出来るのである。だが、此は、只今当面の問題ではなく、且私には其だけの知識がない。而も此等の種族の言語を見ると、やはり日本の古い熟語法と同じ形式をとつて居るのである。文章の語序が違ふやうに、熟語を作る方法が、近代の国語とは全く違つて居る様に見えるだらう。だが、昔の我々は、併し其を持つて居たのである。
ところが、さういふ熟語の作り方、即、修飾部を先立てる形の外に、熟語の作り方はまだいろ/\ある。此を時間的に言ふのは避くべき事なのだが、文献時代には著しく現れて来るのであるから、前の形よりは幾分新しいのではないかと思はれる形は、修飾する語根が先に行つて、修飾せられる主部が其後に来るといふ、一見普通の形である。即、二個の言葉が並んで居るのか接続して居るのか訣らぬ為に、或方法に依つて此を区別する形をとつて居る。此が、前述の形式を古いとすれば、次に来るものであらうと思ふ。其は先づあくせんと[#「あくせんと」に傍線]で表すであらう。事実、さうした試みも、古人は行つたらしいのである。二つの言葉を並べて、今なら小読点を入れるといふ風に、昔の人は単に言葉を並べて行く場合と、熟語を作る場合を区別して、熟語の場合はあくせんと[#「あくせんと」に傍線]を以て下に接続してゐるものなるを示した。詳しい事は訣つて居ないが、古事記だけには、其が僅かながらある。重んずべき伝統的な固有名詞又は、神秘な文句には、此方法をば採用して居る。熟語があくせんと[#「あくせんと」に傍線]を促すのか、あくせんと[#「あくせんと」に傍線]のある為に熟語の職能が果たされるのか訣らぬが、ともかくも、此考へは、とりのける事は出来ない。
其に関聯して、熟語を作る場合に、語根が屈折することに注意を要する。従来、この体言及び名詞の屈折については、多く言はれてゐない。だが、此は大切である。今では体言の語尾は動かぬが、昔は動いたらしい。此事実は、沢山ある。まづ普通音便と称するものからはじめる。エ列の音を持つた名詞が熟する場合は、ア列音に変る。例へば、さけだる[#「さけだる」に傍線]は
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