りでなく、文学そのものゝ主題が亦、旅行的なものにすら傾いて来るのである。此は、概論でなく、事実であつた。譬へば、最後代的なものを捉つて見ても、さうである。
高野山に於ける浄土聖、萱堂の非事吏《ヒジリ》の間に発達したと思はれる苅萱道心親子の物語は、出発点を九州に、頂点を高野山に、結末を信州に置いて、一見、此説経者の文芸が、其三つの地の何れに発祥したものか知れなくなつてゐる。又、おなじ五説経の「山椒太夫」にしても、前者が、善光寺親子地蔵の縁起である様に、「かなやき地蔵」の由来と伝へて、丹後由良湊の事の様に見えてゐるが、事実は津軽岩木山の神と、切つても切れぬ因縁を持つてゐる。簡単な結論の容易につけられない問題ではあるが、ある部分まで言うて正しいことは、一つの地方に根ざした信仰が、搬ばれて行つた途中にも、根を卸す場所が出来て、其処を以て、一条の物語の結末を告げ、又くらいまっくす[#「くらいまっくす」に傍線]を作ることになつたのである、と言ふ見方も確かに成り立つのである。文芸が旅行することによつて、その物語の主人公も、漂遊を重ねると謂つた風に考へられ、更に其旅程も、次第に確実なものとなつて来る訣
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