つた。かうして盲目の唱導者が、漸く著しくなつて行つた。
私どもは今、顧みて神楽以前、日本文学の発生時代の事を語つてよい時に達した様である。
最初に色々あげた形のうち、遠旅《トホタビ》を来るとしたものが、此論文では主要なものとならなければならぬ。従つて、此咄し初めに、神楽を主題とした訣でもあるのだ。此は単に出て来る本貫の、遥かだと言ふには止らない。旅の途次、種々の国々邑落に立ち寄つて、呪術を行ふ事を重点において考へるのである。神としての為事と言ふ事は勿論、或は神に扮してゐると言ふ事をすら忘却する様になる。すると、人間としての為事即、祝言職だと言ふ意識が明らかに起つて来る。祝福することを、民族の古語では――今も、教養ある人には突如として言つても感受出来る程度に識られてゐる――「ほく」或は「ほかふ」と言つて居た。二つながら濁音化して、「ほぐ」「ほがふ」と言ふ風にも訓《ヨ》まれて来てゐる。その名詞は、「ほき」又は「ほかひ」である。だから祝言職が、人に口貰《クチモラ》ふ事を主にする様になつてからは、語その物が軽侮の意義を含むやうになつて来た。その職人を「ほきひと」「ほかひゞと」と称したのが、略せられて、「ほきと」を経た形は「ほいと」となり、――陪堂の字を宛てるのは、仏者・節用集類のさかしらである。――又単に「ほかひ」と称せられる事になつた。此等の者の職業は、だから一面、極めて畏怖すべきものを持つて居て、其過ぎ行く邑落において、怨み嫉みを受ける事を避けると共に、呪術を以て、よい結果を与へ去つて貰はうとした心持ちが、よく訣る。即、既に神その物でなくなつてゐたとしても、神を負ふ者であり、神を使ふ者である。だから大概は、食物を多く喰はせ、又は持ち還らせる事によつて、其をねぎらひ、あた[#「あた」に傍点]せられざらむことを期してゐた。だから当然多くの檀那《パトロン》場を廻ることになつたのである。乞食者の字面を「ほかひゞと」に宛てゝ居るのは、必ずしも正確に当つて居ないのである。此方から与へると言つた意味の方が多いのだ。かう言ふ生活法を採つて居るからと言つて、必ずすべてが前述の如き流離の民の末とは言へない。ある呪術ある村人が、其生活法を嫻《ナラ》つてさうした一団を組織した例も多いのである。彼等の間には、勢ひ、食物の貯蔵に関する知識が発達した。かれいひ[#「かれいひ」に傍線](かれひ・干飯)や、鮓は、其一例である。又その旅行具が次第に、世間人に利用せられる様になつた。所謂「行器」を訓む所の「ほかひ」である。倭名鈔[#「倭名鈔」に傍線]などには、外居の字を宛てゝ居るが、此頃すでに、は行[#「は行」に傍線]・わ行[#「わ行」に傍線]両音群の融通が行はれて居たからで、義は自ら別である。何故《ナゼ》なら、「ほかひ」には、脚のないものが沢山あつたのである。外居は、所謂猫足なる脚の外に向つた所から言ふのだとする説は、成り立たないのである。乞食者が携へ又は、荷つて廻つた重要な器具だつたからである。後世に到るまでの、此器の用途を考へると、第一は巡游神伶団の、神器及び恐らくは、本尊の容れ物であつたらしい。本尊容れで、他の用途に使はれたものは、「ほかひ」以前か、又同時にか、尚一つ考へられる。即、櫛笥《クシゲ》である。此笥に関する暗示は、柳田国男先生既に書かれてゐる。恐らく魂の容器だつたものが、神聖な「髪揚《クシア》げ」の品を収める所となつたのだ。同時に櫛以外の物も這入つて居り、而も尚元の用途は忘れられなかつたのであらう。而も行器に収められてゐると信じられてゐた本尊は、後世の印象を分解して行けば、甚幻怪なものであらう。武家時代に入つて、行器は久しく首桶に使はれた。東京芝大神宮の行器《ホカヒ》――ちぎ[#「ちぎ」に傍点]・ちげ[#「ちげ」に傍点]又は、ちぎ櫃《ビツ》と言ふ――は、大久保彦左用ゐる所の首桶だと言ふ。而も食物容れだと言ふ事は、其処でも忘られては居ない。其上、今も祭礼・婚葬の儀礼の食物は、之に盛つて贈る風が、関東・東山の国々には行はれて居て、ほかい[#「ほかい」に傍線]・ほけ[#「ほけ」に傍線]など称へてゐる。一方又、梓巫女の携へてゐる筥は、行器とは形は違つてゐるが、此中に犬の首が入れてあるのだなどゝ伝へてゐる。巡游神伶の持ち物の中には、本尊と信ぜられた、ある神体の一部が這入つてゐるものだ、と言ふ外部の固い推測が、長く持ち伝へられるだけの、信仰的根柢があつたには違ひないのである。
祝言の乞食者が持ち廻つた神器が、又謂はゞ一種の神座《カグラ》でもある訣であり、同時に食器であり、更に運搬具でもあつたのだ。之を垂下し、又|枴《アフゴ》で担ひ、或は頭上に戴いても歩いて居た。時としては、之に腰を卸して祝言を陳べる様な事もあつた。武家時代に残存してゐた桂女《カツラメ》などは、「ほかひ」を携へて「ほかひ」して歩いた「ほかひゞと」の有力な残存者であつた訣である。「ほかひ」に宛てるに行器の字を以てし、又普通人の旅行にも、之が模造品を持ち歩いた処を見ても、如何に神人の游行の著しかつたかゞ察せられる訣だ。而も此「巡伶」の人々が、悉くほかひ[#「ほかひ」に傍線]なる行器を持つて居た訣でもなからうし、同じく「ほかひゞと」と言はれる人々の間にも、別殊の神の容器を持つた者のある事が考へられる。つまり、何種類とも知れぬ、「ほきと」「ほかひゞと」が、古くは国家確立前から、新しくは中世武家の初中期までも、鮮やかな形において、一種唱導の旅を続けて居たのである。さうした団体が、五百年、千年の間に、さしたる変化もあつたらしくないやうに、内容の各方面も、時代の影響は濃厚に受ける部分はありながら、又一方殆罔極の過去の生活を保存して居た事も、思はねばならないのである。

      ことほぎ

神座を持つて廻つて、遂に神楽と言ふ一派の呪術芸能を開いたものでも、亦「ほかひ」である点では一つであつた。唯大倭宮廷に古くあつた鎮魂術《タマフリ》の形式上の制約に入つて、舞踏を主として、反閇の効果を挙げようとしたのが、かぐら[#「かぐら」に傍線]であり、「言《イ》ひ立《タ》て」によつて、精霊を屈服させようとする事と、精霊が「言ひ立て」をして、服従を誓ふのと、此二つの形を一つにごつた[#「ごつた」に傍点]にして持つものが、「ほかひ」であつたとは言へる。さうして、ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の中、所作《フルマヒ》を主としたものが「ことほぎ」であつた。凡、「ほかひ」と謂はれるもの、此部類に入らないものはない。つまり純乎たる命令者もなく、突然な服従と謂つたものもない訣で、両方の要素を持つた精霊の代表者の様な者を、常に考へて居たのである。だから、宮廷、社会の為に、精霊を圧へに来ることは、常世の賓客の様でありながら、実に其地方の地主《ヂシユ》なる神及び、その眷属なる事が多い。私は、神楽・東遊などに条件的に数へられてゐた陪従《ベイジユウ》――加陪従もある――などは、伴神即、眷属の意義だと信じてゐるのだ。此等の地主神――客神《カウジン》・摩陀羅神・羅刹神・伽藍神なども言ふ――は、踏歌|節会《セチヱ》の「ことほぎ」と等しい意味の者で、怪奇な異装をして、笑ふに堪へた口状を陳べる。殊に尾籠《ヲコ》な哄笑を目的として、誇張による性欲咄と、滑稽・皮肉を列ね言ふのであつた。だから、詞章から言へば、いはひごと――鎮護詞――と言ふべきものを元として、其を更にくづして[#「くづして」に傍点]唱へたものらしい。「歌」物語以外において、日本文学の滑稽の出発点を求めれば、此点を第一に見ねばなるまい。態度としての滑稽は、「歌」ばかりからは出て来ない訣だからである。歌物語における滑稽は、歌諺類を、すべての人をして、信じ難い方法で以て、而も強ひて巧みに説明する技巧から出て来るのである。だが、其外に確かに、今挙げた別途の笑ひの要素が含まれてゐる。
かうした「いはひ詞」を持つて、諸国の檀那場を廻る様になる。其が、進むと千秋万歳《センジユマンザイ》である。此は、平安朝に早く現れて、而も人の想像する程の変化もなく、近代の万歳芸に連接してゐるのである。
併しさうした笑ひを要素とした祝言職以外に、もつと古風な呪芸者の群れがある。自団の呪術――主として禊祓の起原に関聯した叙事詩を説く事によつて其術の効果の保証せられるものと信じて居た――を持つて廻つた、各所の霊地の神人団が、其だ。此に信仰の宣布と共に、新地の開拓と言ふ根本的目的を持つて居た。つまりある信仰の拡まる事は、其国土の伸びる事となるのだ。
天子の奉為《オンタメ》の神人団としては、其|朝《テウ》々に親※[#「目+丑」、95−17]申した舎人《トネリ》たちの大舎人部《オホトネリベ》――詳しく言へば、日置《ヒオキノ》大舎人部、又短く換へて言ふと、日置部|日祀部《ヒマツリベ》など――の宣教する範囲、天神の御指定以外に天子の地となる。皇后の為にも、同様の意義において、私部《キサイツベ》が段々出来て行つた。かうして次第に、此他の大貴族の為に、飛び/\に認可せられた私有地が出来て来る。さう言つた地には、此に其建て主又は、其邑落に信奉せられてゐる呪法の起原の繋る所の叙事詩の主人公――元来の土地所有者の生涯の断片に関して語り伝へたものである。さうして、同一起原を説く土地の間において、歴史的関係が結ばれて来る訳である。
過去の人及び神を中心として、種々の信仰網とも言ふべきものが、全国に敷かれて居たのである。之を行うたのは、誰か。言ふまでもなく、巡游伶人である。而も、其中最その意味の事業を、無意識の間に深く成就して行つたのは、何れの団体であらう。其は、海部の民たちである。
之を外にしては、大体において、山部と称へてよい種類の、山の聖水によつてする禊ぎを勧める者が多く游行した様に思はれる。
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まきもくの 穴師の山の山びとと 人も見るかに、山かづらせよ
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穴師《アナシ》神人の漂遊宣教は、播磨風土記によつて知られるが、同時に此詞章が、神楽歌|採物《トリモノ》「蘰《カツラ》」のものである事を思ふと、様々な事を考へさせられる。山人が旅をする事の外に、近い里の祭儀に参加したのである。さうして祝福の詞を述べた事が屡あつた。此は、奈良都以前から行はれて居た事で、更に持ち越して、平安朝においてすら、尚大社々々の祭りに、山人の来ること、日吉・松[#(ノ)]尾・大原野の如き、皆其であつた。
海部と言ひ、山人と言ひ、小曲を謡ふやうになつたと言ふ事は、同時に元《はじめ》長い詞章のあつた事を示してゐるとも言へる。呪詞又は叙事詩に替るに、其一部として発生した短歌が用ゐられることになつたので、之を謡ふことが、長章を唱へるのと同等の効果あるものと考へられたのである。だが同時に、小曲の説明として、長章が諷唱せられる事があるやうになつた。即順序は、正に逆である。かう言ふ場合に、之を呼んで「歌《ウタ》の本《モト》」と称してゐた。歌の本辞《ホンジ》(もとつごと)言ひ換へれば、歌物語《ウタモノガタリ》の古形であつて、また必しも歌の為のみに有するものと考へられて居なかつた時代の形なのだ。
古く溯る程、歌よりも、その本辞たる叙事詩或は、呪詞の用ゐられることが、原則的に行はれてゐた。歌の行はれる様になると、同時に「諺」が唱へられたらしい。「諺」は、半意識状態に人の心を導く一種の謎の様な表現を古くから持つたもので、同時にある諷諭・口堅めの信仰を含んでゐるものでもあつた。簡単な対句《ツヰク》的な形式の中に、古代人としての深い知識を含んでゐるものでもあつた。だから、諺に対しては、ある解説を要する場合が多く、其解説者としての宿老《トネ》が、何処にも居つたのである。其で諺については、どうしても説話が発達しないでは居なかつた。歌と呪詞・叙事詩との関係を、寧逆にしたのが諺の場合である。所謂歌から生じた後の歌物語なるものは、諺とその説話との関係を見倣つて進んで来たのだと言ふことが出来る。諺の最《もつとも》諺らしい表現をせられる時は、即「謎《ナゾ》」に
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