唱導文学
――序説として――
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)常世《トコヨ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此|土《くに》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「くさかんむり/坐」、第4水準2−86−26]

 [#…]:返り点
 (例)安曇[#(ノ)]磯良

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

唱導文学といふ語は、単なる「唱導」の「文学」と言ふ事でなく、多少熟語としての偏傾を持つて居るのである。事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教――仏教――的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざ/\、選んだ字面であつたのである。其れが今日では、既に多少普遍化して来て、又語らざるに、却て仏教的な説経文学の意義に考へられかけて居る。実は、もうさうなつてもよい、と考へてゐる私である。元、漂遊者の文学、巡游伶人の文学などゝ命けて、考察を続けて来た間に、その頃此国の文学史家が、徐ろにとり入れかけたのが、もうるとん[#「もうるとん」に傍線]氏の文学論及び文学史に関する諸論文であつた。右の先輩の文学に対する態度は、其前から盛んであつた仏蘭西の民俗学的な研究法から、甚しく影響を受けたものであつた。其だけにおなじく、民俗学的態度に拠る事の多い私どもの研究法からは、極めて些細な点までも、差異が見え透いた。あめりか[#「あめりか」に傍線]流に常識化したやりくち[#「やりくち」に傍点]が、如何にも気易げに感ぜられたのであつた。そのもうるとん[#「もうるとん」に傍線]氏を立てる方々の間に、漂流文学と言ふ術語が喜ばれ出した時期があつた。で其混乱を避ける為に、わざと唱導文学の字面を採ることにもしたのであつた。だから、宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。
殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、徐々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである。

      文学は旅行する

題目の少し、効果的である事は恥しいが、殆ど宿命的に、唱導文学には、旅行と言ふことがついて廻つて居たのである。まづ発生の第一歩からして、さうであつた。さうして、「非文学」が次第に、文学となつて行つて居る間にも、一方絶えず、旅行が文学となつて居た。其ほど文学は、旅行そのものであつた。私は実際口のすつぱくなるほど、異人の文学と言ふものを説いて来た。常世《トコヨ》と称する異郷から、「まれびと」と言ふべき異人が週期的に、此|土《くに》を訪れたのである。さうしてその都度、儀礼と呪詞とを齎らした。儀礼が大体において、祭祀となり、芸術的には、演劇と舞踊と、又若干の奇術とを分化した。呪詞は常に、同一詞章のくり返されてゐる間に、次第に小区分を生じ、種々の口頭伝承を分化した。何故文学が、非文学から生じたかと言ふ事の、第一条件となるものは、さうした来訪者の口唱する呪詞の固定である。だが、其よりも先に大切な事は、その人々は、実は旅行者でなく、ある邑落と不即不離の関係で、生活してゐる者でなければならなかつた。此言ひ方は実は少々、錯乱を含んでゐる。同じ村の生活者の一部が、週期的の来訪時と考へられた時期に、恰も遥かな――譬へば通例、海彼岸《カイヒガン》に在ると考へられた――国土から出発して来向つたもの、と信仰的に考へられて居た。これが多分、最古くからの正しい形で、亦最後世までも俤を存したものと見える。其に対して、或は今一つ前の姿と誤認せられ易いのは、次に言ふものである。其邑落と、平常に何の交渉もない社会生活を続けて居て、単に祭祀の短い期においてのみ、訪問して来る団体の出る、別殊の部落――多くは、訪れを受ける村よりは、小い組織の村と考へられてゐたらしい――があつた。要するに、後代まで山奥或は、岬《ミサキ》・島陰の僻陬に構へた隠れ里から、里の祝福を述べる為に、年暦の新なる機会毎に来訪すると言ふ形の、部落があつたのである。此意味において、古代日本民族の中心となつてゐた邑落に対して、海部《アマ》或は山人《ヤマビト》の住みかと言ふものが、多くは指顧する事の出来る様な近い距離に、構へられる様にもなつた。其為こそ、伝襲的に愈々盛んになつた文学上の題目、海士《アマ》や山賤《ヤマガツ》の生活があつたのである。後に段々、単に文学者の優美に触れるものとしてよりか、扱はれなかつたとしても、言語伝承として、其形骸だけでも久しく存続した訣なのだ。此意味のものも、最古い姿においては存外、邑落自身の民の派出して生じたものと見られるのである。つまり祭祀の時の神として来向ふ若干の神人が、臨時に山中・海島に匿れて物忌みの後、神に扮装《ヤツ》して来ると言ふ風が、半定住の形を採つたのである。即、さうした里離れた地における隔離生活が、段々延長せられて行つて、遂にはある邑落に関聯深い特殊な儀礼奉仕の部落が成立する様になる。とゞのつまり、祭儀の為の奴隷村と言つた形を採つて、村同士の関係が固定したまゝ、永続する様になつて行く。而も更に次に言はうとする形の団体と、部落以外の人からは同一視せられて、邑落との関係が、非常に自由になつて行く。数個の邑落と交渉を生じ、更に幾つとも知れぬ檀那《パトロン》村を生じて、祝福を職業とする乞食者《ホカヒビト》となつて行つたものもある。だから実際は、山部《ヤマベ》・海部《アマベ》の種族と言ふでふ、元日本民族の分岐《エダモノ》者であつたのが、多いのではないかと思ふ。さうして其を逆に、俘虜・新降の徒《トモガラ》、即異神を奉じて、其力を以て、宮廷及び地方的権威者を祝福するものだ、と信じられる様になつたものゝ方が、多かつたのではないかと考へる。
第三は、真の旅行団体、巡游伶人とも言ふべきものである。此こそ今挙げたものと、前後の関係を交錯して居るのである。判然と言ひわける事は、却て不自然で、謬つた結果に陥る訣なのである。先住民或は、後住族が、何時までも国籍を持つことなく、移動をくり返す事、あまりに古代日本中心民族と、生活様式を異にして居た。さうして、その訪問する邑落の範囲は、極めて広く遠く及んでゐた為に、中世武家盛んなる時に及んで、漸く人中に韜晦して了ふものが出来ても、尚その落伍者は、過去千年以前からの流転の形を保つて居た。さうして今も恐らくは、さうした種族の後と思はれる者が、南島の海士の中に、又旧日本の山伝ひをする剽悍な部族として残つてゐるものと考へられて居る。
古代からの素朴な考へ方からすれば、此形式のものばかりを考へてゐたのである。現実に存在するもの、と信じたのである。此は真実もあり、錯誤もあつたに違ひない。だが、かうした種族の存在を考へるに到つた元は、その人々と同じくして、もつと畏しいものとして迎へられた神々の群行であつたのだ。週期的に異神の群行があつて、邑落を訪れ、復来むまでの祝福をして通るものと信じてゐた事にある。此信仰が深まると共に、時として忽然極めて新なる神々の来臨に遭ふ事も、屡《しばしば》であつた。さうした定期のをも、臨時のをも、等しく漠たる古代からの考へ方で信じてゐたのである。畏しくして、又信頼すべきものとしてゐた。其等の神の持ち来した詞章は勿論、舞踊・演劇の類は、時を経ると共に、此土の芸術として形を著しく固めて行つた次第である。たとひ此等の異人の真の来訪のない時代にも、村々の宿老《トネ》は、新しく小邑落の生活精神としての呪術を継承する新人《ニヒビト》を養成する為に、秘密結社を断やす事なき様に努めて来た。其処で、ある期間の禁欲生活《モノイミ》を経た若者たちは、その解放を意味する儀礼としての祭祀において、神群行の聖劇を行つた。行道或は地霊克服を内容としての演劇であつた。又苛酷な訓練や、使役の反覆、憑霊状態に入る前後の動作、さう謂つたものが次第に固定し、意識化せられて芸能となつて来た。つまり其等の信仰の原体は、「常世の稀人《マレビト》(賓客)」なる妖怪であつた。さうして、合理化しては、邑落の祖先なる考妣《チヽハヽ》二体を中心とする多数の霊魂であるとした。我が国古風の祭祀では、その古義を存するもの程、其多くの群行する賓客を迎へる設備をしたものである。藤原の氏の長者権の移動を示すものとして、考へられてゐた朱器《シユキ》・台盤《ダイバン》の意義を、私は古くから、此賓客を饗応する権力即「あるじ」たる力を獲る事にあるとして居た。近頃、村田正言学士が、此「二種の神器」の外に、蒭量と言ふもののある事を教へてくれた。まだ円満な解釈に達しないが、字から見れば、「くさはかり」又は「ひくさ[#「ひくさ」に「干草」の注記]ちぎり」とでも言ふべき、古代の重さを見る計量器――即、恐らくは其容れ物――であつたらしい事は察せられる。さすれば、馬の飼葉《カヒバ》を与へる事を意味してゐるものがありさうに思はれる。

      其駒

[#ここから2字下げ]
その駒ぞや われに草乞ふ。草はとり飼《カ》はむ。みづはとり 草はとり飼はむや――其駒
さゝ(ひ)のくま 日前《ヒノクマ》川に駒とめて、しばし飲《ミヅカ》へ。かげをだに(我よそに)見む
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――古今集 昼目

又、

[#ここから2字下げ]
いづこにか 駒をつながむ。あさひこがさすや 岡べのたま篠のうへに。たま篠のうへに
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――神楽 昼目
[#ここから2字下げ]
此岡に 草刈る小子《ワクゴ》。然《シカ》な刈りそね。ありつゝも 君が来まさむ御馬草《ミマクサ》にせむ――万葉巻七
[#ここで字下げ終わり]
類例は、煩はしい程ある。我々は昔から唯の処女が、恋人を待ち兼ねての心いそぎの現れと見て、単にいぢらしいものゝ類型と考へて来た。だが古い思案はちよつと待て、と云ひたくなる。私どもの長く最親しい同伴者西角井正慶君の新著「神楽研究」は劃期的の良書である。此章では、暫らく西角井君と二人分しやべらして頂くつもりである。神楽の「昼目歌」は、勿論其直前の「朝倉」に引き続いての朝歌である。詳しく言へば、吉々利々《キリキリ》で、明星《アカボシ》を仰いで、朝歌は初まるのである。さうして、実はもう朝倉だけで、神楽は夜の物の、「遊び上げ」になつてよいのである。だから、其を延長したものとして、昼目歌が続く訣である。御覧のとほり、昼目・其駒、実質的には変りはない。其他に、本によつて、色んな歌のついて来るのは、「名残り遊び」で、庭|浄《ギヨ》めに過ぎない。即、朝倉・昼目・其駒、一つ物の分化したゞけに過ぎないので、神楽は実に、茲きりの物だつたのだらう。此等を通じて見える精神は、「神上げ」であり、「名残惜しみ」に過ぎない。だから、神の乗り物の脚遅からむことを望むことが、同時に神を満足させる事になるのである。神送りはいづれも、さうするのであつた。だから、駒を主題として、「おなごり惜しの。また来て賜れ」の発想を、古今集の神楽《カミアソビ》歌の「さゝのくま」では、名残り惜しみの義に片寄せて用ゐて居たのだ。神楽のは、「つながむ」で其が示されて居るつもりで謡はれたのだらうが、全体としては、神讃めと言つた形に近い。さうして何だか支離滅裂な気分歌である。万葉のは、待つ間のある一日の感懐と言ふやうに見えるが、ほんたうならば、こんな表現はしない筈である。段々類型が偏傾を生じて、かうさせたのである。若しも之を
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