神楽などに利用すれば、今度来る時への誓約《カネゴト》として利いて来る。草苅る事を禁ずる形式の歌は、此型を外にして、まだ幾つかの違つた形を持つて居る。ともかくも、遠旅《トホタビ》を来た賓客《マレビト》に対して、「その駒」に蒭飼《クサカ》ふ事は、歓待の一表出である。「其駒」自体の様に、何処に目的のあるやら、だから、腑の抜けた様な歌が、生彩を放つて来る訣である。
田楽は、恐らく固有の「田遊《タアソビ》」と踏歌《タウカ》・呪師《ジユシ》芸能の色んな形に混合したものと思はれる。だが単に庭或は、座敷芸と考へてはならない。群行即道行きの練り物であり、又「門入り」を主とするものであつた事は訣る。即、練道《レンダウ》の途次、立ち寄つて、芸能の一部を演じて行く家々があつた。水駅・飯駅・蒭駅など呼んだところから見ると、旅人の駅路を来るに擬したものと思つてよい。飯駅は、その家では屯食《トンジキ》にでもありつくのだらう。水駅は、人の上にも解せられるが、主として、馬に飲《みづか》ふ駅舎に見立てたのだらう。蒭駅は勿論、馬に飼ふ干草《ヒクサ》をくれる処との考へである。だから考へると、蒭量を藤氏の氏上相承の宝とした訣もわかつて来る。秣と称して、実は馬に扮した人の纏頭となる物が与へられたのでもあらうか。が古くは、やはり想像にも能はぬ事だが、馬糧の草籠の類が用ゐられたのであらう。「蒭」は、ひくさ[#「ひくさ」に傍線]ではあるが、秣・※[#「くさかんむり/坐」、第4水準2−86−26]の様に、まくさ[#「まくさ」に傍線]とは訓まれないのが本道だ。馬糧にも使ふが、用途は外にもあつた。諏訪社には祭礼に廻る木並びに其他の地物があつた。此を「湛《タヽヘ》」と称へてゐる。此解釈も区々だが、大体において、神長官の順廻する所なのは、確かだ。其一つに「ひくさ湛」と言ふのゝあるのは、やはり蒭に関したものなのではないかと思ふ。かうして、主たる目的の家に達すると、賓客の外出入り禁断の中門で、最力のこもつた芸能を、演じなければならなかつた。其為こそ、後世ちらばら[#「ちらばら」に傍点]になつた諸国の田楽でも、凡皆「中門口」と称する曲目は、名だけでも失はず居た。此が田楽の「能」として、俤を残したと思はれるのは、名だけ伝つた「熱田春敲門の能」と称するものである。此中門は、外廓の門を入つて、更に内庭に入らうとする所にあつた。宮殿と後に言ふ「寝殿」へ通る入り口である。群行神なればこそ、中門を入らうとして此口において、芸を奏したのである。万葉巻十六の「乞食者詠《ホカヒビトノエイ》」の「蟹」の歌に、「ひむがしの中の御門ゆ参《マヰ》入り来ては……」とあるのは、祝言職者の歌である為、中門口を言うてゐるのである。後には、中門も、東西に開き、泉殿《イヅミドノ》・釣《ツリ》殿を左右に出す様に、相称形を採る様になつたが、古くはどちらかに一つ、地形によつて造られて居たものと思はれる。だから場合によつては、南が正面にも、北が其になる事も、あつたであらう。又、宮廷の如きは、四方の門を等しく重く見るのが旧儀であつて、其が次第に、南面思想に引かれて行つたものらしい所を見ると、宮廷内郭の玄輝門或は、其正北、外廓に当る朔平門に関して考へねばならぬ。其北の最外郭にあるのは、古くから不開御門《アケズノミカド》と呼ばれた偉鑒門《ゐかんもん》である。即、正南門の朱雀門に、対当する建て物であつた。彼通称を得た理由としては、花山院御出家に際して、此門から遁れ出られた事の不祥を説いて居るが、此は民俗的な考へ方だけに、史実でない事が思はれる。

      北御門《キタミカド》

普通、社寺或は民家で、「あけずの門」と称する物は、必祭日或は、元旦などに、神を迎へる為に開く為のみの用途を持つて居たもの、と言ふ事は、明らかである。其だけに、此宮門正北の不開門も、昔は時を定めて稀に開く事があつた事と思はれる。北方の諸門は、皇后・中宮その他、後宮の出入所になつて居た。だから従つて偉鑒門も、後宮に関係深かつたものだ、と思はれる。所謂不開門になつてからは、その為事を達智門に譲ることになつた。宮廷に行はれた四種の鎮魂儀礼の中、鎮魂祭は、大倭宮廷の旧儀である。其外、清暑堂の御神楽と、内侍所の御神楽とでは、自ら性質が違つて居り、尚その他にも幾種類同様なものが練り込んだか知れないが、其中俤の察せられるのは、北御門の御神楽なるものゝ存在である。唯、其が独立して居たものやら、この神楽の一部分やら訣らぬ事である。恐らくこの神楽歌の名称には其北方から、宮廷に参入して来た姿を留めて居るのではないか。結局「承徳三年書写古謡集」に並記せられた介比乃《ケヒノ》神楽(気比神楽)と一続きのものであるまいか。宮廷において北御門と正式に呼ぶ事の出来るのは、此門だけである。私は曾て、偉鑒門外で警蹕をかけ、反閇を行うた神楽のあつた事を想像する。たとへば、ある神に属する神楽は、応天門――勿論朱雀門を過ぎて――豊楽院《ブラクヰン》の後房なる清暑堂に入り来つたとも考へられる。此歴史を守つたのが、清暑堂の御神楽となつた。西角井君の「研究」に拠つて物を言へば、明らかに単に、数種の宮廷神楽の一つの名称を言ふ事にとつてよいのだ。清暑堂焼亡の後も、他の殿舎の辺りで、「清暑堂御神楽」と言ふ名で行はれてよい訣なのである。此は、大内裡全体に対して行はれたものと考へる。内侍所の御神楽は、今すこし小規模で、至尊平常起臥の構内に関係したものと思はれる。言ふまでもなく、神楽奉奏の為に、神参入するのでなく、神入り来つた事の条件として、神楽が奉仕せられた訣である。後に本末顛倒して、神楽の為に時を設ける様になつたが、結局神楽は、元宮廷内で発生したものでなく、冬期の祭日に、外から入り来る異人の反閇《ヘンバイ》所作であつた事が考へられる。神楽次第からすると、内侍所の御神楽は、人長《ニンヂヤウ》の警蹕からはじまる。二声「鳴り高し」をくり返すと言ふ。即、群行神の主神が、茲に出現した形である。警蹕の本義から見れば、かうした形は第二次以下のものではあるが、ともかくも風俗歌譜で見ると、一つの歌詞のやうにまでなつて居たのだ。「音なせそや。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」「あなかま。従者《コンドモ》等や。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」。此から見ると、「鳴り高し」の意義が思はれる。宮門においてする警蹕なのである。内侍所御神楽は、伝来を尋ねると、確かに石清水八幡出のものである。だが、此由緒は、清暑堂の御神楽と混淆して居ないとも限らない。「韓神《カラカミ》」の歌、或は枯荻をかざし舞ふ所作などが、重要視せられ、ある種の神楽によると、韓神歌が重複したりしてゐる。其から見ると、平安京城の地主神たる薗・韓神の宮廷祝福の為に、参入した事を暗示してゐるのでないかと思ふ。
どれがどれと言ふ風に、三種の神遊以外に更にあつたと思はれる宮廷神楽を明確に分たうとする事が、不自然であり、現に其目安となつてゐる歌詞さへ、混乱してゐるのだから、出来ない相談でもある。が、北御門の神楽の所属は、ある神楽謂はゞ、中門口の芸であつた所から、詞章が少かつたのか、又全然別殊のものか、今後も、尚問題になる事と思ふ。
[#ここから2字下げ]
椎柴に 幡《ハタ》とりつけて、誰《タ》が世にか 北の御門《ミカド》と いはひ初《ソ》めけむ――北御門の末歌
三島木綿肩にとりかけ、誰が世にか 北の御門と いはひそめけむ――本
八|平盤《ヒラデ》を手にとり持ちて、誰が世にか 北の御門と いはひ初めけむ――末
[#ここで字下げ終わり]
此後の二首は普通は、下の句は「我韓神のからをぎせむや」となつてゐる。どちらかが替へ文句である。全体から見て訣るやうに、韓神の歌の下の句の自由性を模倣し、上句をその儘にしておいたのが「北御門」の伝文の方らしい。即、替へ歌である。韓神の歌を転用して居る点から見ても、――却て近い関係を説く論理もなり立ちさうだが――韓神とは、別の遊行神に属する神楽だと思はれる。
神楽はその奏上次第から見て、正しく宮廷外の神の練道芸能である。つまり一種の野外劇になつて行く傾向を示してゐる。だが、偶然、日本の神事の特色として、大家《オホヤケ》に練り込むと言ふ慣例のあつたのに引かれて、謂はゞ「庭の芸能」と言ふ形を主とする事になつて行つた訣だ。だから此形の外に、ぺいぜんと[#「ぺいぜんと」に傍線]の形式を採つた部分もあつた事が、辿れるやうになる事と思ふ。さすれば、踏歌や、田楽と極めてよく似て居て、唯、ある差異があつたと言ふ事になる。即、神楽では、謡ひ物としては、短歌形式が主要視せられた事が、其一つである。其二は、古くから「神遊び」と称せられてゐたものに似て居て、同一の見方に這入ることが出来た事、さうして其が其特徴たる「かぐら」の名を発揮して来たこと。だから最初「かぐら神楽《カムアソビ》」など言ふ名で呼ばれて居た事を考へて見る方が、古態を思ひ易くてよい。第三は、其巡行の中心として所謂「かぐら」なるものが行進の列に加つて居た事。さうして其|神座《カグラ》に据ゑた神体が、異風なものであつたらしい事。さうして、其|神座《カグラ》に居る神の実体は、後の神楽には、閑却せられて了ふ様になつたらしい。だから神楽も、古いものほど、神体を据ゑた神座《カグラ》なるものを中心とした群行だつたに違ひない。神楽では、安曇[#(ノ)]磯良を象つた鬼面|幌身《ホロミ》の神楽獅子に近いものだつたのではないか。
才《サイ》[#(ノ)]男《ヲ》が、宮廷以外は、多く人形を用ゐたらしい処から見ると、神楽の形も想像が出来ると思ふ。此事は却て逆に神自身が、偶像に近い形のもので、之を持ち出す事によつて、俄かに、威霊が活躍し出すと謂つたものではなかつたかと思ふ。たとへば神楽と最関係深い八幡神布教状態から見ても知れる様に、高良山神――武内宿禰と説く――に象つたと称する人形を先頭に立てゝ歩いたのであつた。その為、高良の大太良男大太良女《オホタラヲオホタラメ》[#(ノ)]神が、世間に知られて、大太郎《ダイタラ》法師と言ふものゝ信仰が行はれた訣である。八幡神を直に人形身で示した証拠がなくとも、其最側近なる神を偶像を以て表し、又其を緩慢にでも操《アヤツ》る事によつて、一種の効果を齎したものとすれば、石清水系統に神座《カグラ》のあつた事が考へられる。八幡神の如きも、大いに遊行する神であつて、宇佐から上つて、東大寺の大仏を拝した如きは、聖武天皇の朝の事で、其群行と主神の如何様なるものであつたかゞ、判断出来る訣である。

      巡游伶人

神楽の神が旅をして、而もある種の文学を生みひろげて行く事を語つた。北御門へ来る神楽は、恐らく北方からくる神であつて、或はおなじ八幡に仮託せられる様になつたとしても、気比《ケヒ》の神らしい処が見えるのである。八幡神が、誉田《ホムダ》天皇の御事と定まつて来たのも、単なる紀氏の僧|行教《ギヤウケウ》などのさかしらよりも早く、神楽によつて、合理的な説明が試みられてゐたのかも知れない。
「優婆塞が行ふ山の椎が本」など言ふ語は、譬へば後世の所謂法印神楽などに関聯する所が多い様に見える。だが歌などは、何とでも説明出来るが、まあかうした歌を用ゐるやうになつたゞけ、遅い時代の游行神の文学の姿を示したものと、言ふ事が出来る訣である。一体神楽は、かうした旅行異人の齎した文学としては、様式こそ昔ながらなれ、内容は新しくなつてゐるのである。極めて古い物は、呪詞の形を採つてゐたのに、平安朝になると、かうした歌の形を主とするやうになつてゐたのである。而も此後といへども幾回、幾百回、かう言ふ儀礼がくり返されたか知れないのである。さうして、転じては又「今様」を主とする時代さへも、やつて来たのである。其が変じて武家時代の初頭には、「宴曲」などがその意味においての主要なものになり代り、又一転して、説経の伴奏琵琶が勢力を得るやうになつて、説経が永く本流となるやうになり、而も其が分岐して、浄瑠璃を生じる事とな
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング