近づいて来る。と言ふより、謎は此から出たと言ふのが、正しいであらう。懸け合ひすることを、祭祀の儀礼の重要な部分とするのが、古代の習慣であつた。神及び精霊の間に、互に相手方の唱和を阻止する様な技巧が積まれて来てゐた。即応する事が出来ねば負けとなる訣である。元来は真の頓才《ヰツト》による問答であつたらうが、次第に固定して双方ともにきまつたものをくり返す様になつた事である。唯、僅かづゝの当意即妙式な変化と、順序の飛躍とがあつたに過ぎないであらう。
歌物語においては、如何にも真実らしく感じる所から、自然悲劇的な内容を持つものが多くなつて行くが、諺物語においては、次第に周知の伝承を避け、而も意表に出るを努める所から、嘘話としての効果をねらふ様になり、喜劇的な不安な結末を作る方に傾くのである。
早歌《ハヤウタ》
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(いづれぞや。とうどまり。彼崎越えて)
本」何処だい。行き止りは。末」そんなこつちや駄目だ。あの崎越えてまだ/\。
(み山の小黒葛。くれ/\。小黒葛)
本」山のつゞらで言へば、末」もつと繰れ/\。山の小つゞら。
(鷺の頸とろむと。いとはた長ううて)
本」鷺の首をしめようとすると。末」ところが又むやみに長くつて
(あかゞり踏むな。後なる子。我も目はあり。先なる子)
本」踵のあかぎれを踏んでは困る。うしろの人間よ。末」言ふな。おれだつて、目がついてるぞ。先に行く奴め。
(舎人こそう。しりこそう。われもこそう。しりこそう)
本」若い衆来い。ついて来い。末」手前も来い。ついて来い。
(あちの山。せ山。せ山のあちのせ)
本」向うの山だから、其で背山だ。末」背山でさうして、向うのせ山。
(近衛のみかどに、巾子《コジ》おといつ。髪の根のなければ)
本」陽明門の前で、冠の巾子をぽろりと落した。末」為方がないぢやないか。髪のもとゞりがないから。
(をみな子の才《ザエ》は、霜月・師走のかいこぼち)
本」そんなら問はう。婦人の六芸に達したと言ふのは。末」十一、十二月に、少々降る雨雪で、役にも立たぬ。
(あふりどや。ひはりど。ひはりどや、あふり戸)
本」ばた/\開く戸。(其も困るが)つつぱつてあかぬ 末」(此奴も困り者だ)。つつぱり戸に、ばた/″\戸。
(ゆすりあげよ。そゝりあげ。そゝりあげよ。ゆすりあげ)
本」戸ならばゆすつてあげろ。しやくつてあげろ。末」しやくつてあげろ。ゆすつてあげろ。
(谷からいかば、岡からいかむ。岡から行かば、谷から行かむ)
本」お前が谷から行くとすりや、おれは高みから行かう。末」お前が高みから行くとすりや、おれは谷から行かう。
(これからいかば、かれからいかむ。かれからいかば、これからいかむ)
本」お前が此処をば通るなら、おれは向うを通る。末」お前が向うを通るなら、おれは此処を通る。
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かうした口訳を作ることは、くどい事だし、尚、当然誤訳もあるだらうし、私自身に別説もある。これは頓作《トンサク》問答だから、早歌と言つたのだが、歌と言ふほどの物でもなからう。その中「近衛御門云々」は即座の応酬だらうし、「女子《ヲミナゴ》の才《ザエ》云々」は諺だつたらう。
神楽の歌詞から、神楽の原義は固より、その過程を引き出さうとする事の無謀であることは、勿論の事である。其だけ替へ歌が、沢山這入つて来てゐる訣だ。だが、早歌を見ると、如何にも山及び遠旅の印象が、明らかに出てゐる。其上に、「近衛御門に巾子落いつ」などになると、踏歌に出る仮装者の高巾子《カウコンジ》や、其に関聯して中門口の行事などが思ひ浮べられる。謡ひ方も勿論早かつたであらうが、其は問答に伴ふ懸け合ひの早さであり、頓作問答としての意義を含んでゐるのである。人長・才男の問答で、其早歌が流行した結果、白拍子歌にまで入りこんで、幾つもの今様を懸け合ひで連ねて行くところから、宴曲の早歌が出て来たものと考へられる。ともかくも、神楽においては、才《サイ》[#(ノ)]男《ヲ》は、これで引きこみになる訣で、全体の趣きから見ても、名残惜しみの様子が見えてゐる。
海部の伝承は、記紀・万葉を見ても、其物語歌の性質から見て、或は、その名称から見て察する事の出来るものが多い。更に大きな一群としては、海語部《アマガタリベ》の手を経て宮廷に入つたものと思はれるものがあるのである。此には多少の疑問はあり乍ら、私どもにとつては、既に一応の検査ずみになつて居るのである。現在の処では、山人及び山部に属する人々の伝承は、鎮魂とその舞踊とが名高くなつて、其詞章の長いものは、わりに失はれたものが多い様に見える。今度の試みにおいて、西角井君の為事を記念する意味において、神楽を主題にしたのも、実にこゝに一つの焦点を結ばうとした理由もあるのだ。日本紀には、「山」について、却て大きな伝承群のあつたらう趣きを示してゐる。応神帝崩後、額田《ヌカタ》ノ大中彦《オホナカツヒコ》、倭ノ屯田・屯倉を自由にしようとなされて、是屯田は元来「山守ノ地」だから、我が地だと言はれた。大中彦は、大山守尊の同母弟だからと言ふが、実は一つの資格なのだ。大鷦鷯尊、倭ノ直《アタヘ》祖麻呂を召し上げて、其正否を問はれた時、「私は存じません。唯、臣の弟|吾子籠《アコゴ》、此事を知れり」と奏上した。其で、韓国《カラクニ》に使して居た同人を急に呼び寄せられた。吾子籠の御答へには「倭の屯田は天子の御田です。天子の皇子と申しても掌る事は許されぬ事になつて居ます」と答へたのは、倭ノ直氏人の中、神聖な物語を継承する資格即|語部《カタリベ》たる選ばれた力が吾子籠にあつたのだ。さうして、倭氏であるだけに、「山」に関係が深かつたのである。山神に仕へる資格を持つた倭国造家の人である。これも単に唯、保証人と謂つた為事だけなら、わざ/″\韓国から、氏人の中、限られた者の呼び寄せられる理由はなかつた筈だ。
かうした「山の伝承」が、山人、山部及びその類の神人の間にあつたのが、早く詞章を短縮した歌殊に短歌の方に趣いたのは、神遊《カムアソビ》詞章の特殊化であつた。私などは、海部が其豊富な海の幸と、広い生活地を占めてゐる為の発展力を、何処までも伸して、神遊びまでも、平安朝に到つて自家のものを推し出して来たが、元は、「山神楽」が重要なものだつたと思ふ。「採物」を見ても、殆《ほとんど》山及び山人、山の水に関係ある物ではないか。
あまりに物を対比的に見ることは、誤つたしうち[#「しうち」に傍点]に違ひないが、私は後世式にかう言はう。海部《アマ》の浄瑠璃、山部の小唄。即前者は、平安期の末まで、長い叙事詩を持ち歩き、後者は早く奈良朝又は其前にすら短歌を盛んに携行したものと見られるのである。たとへば、山部宿禰赤人、高市連黒人、皆山ノ部に関係深い人々である。柿本ノ朝臣人麻呂にしてからが、倭の和邇氏の分派であり、其本貫、其同族を参考にしても、山に関係が深いのである。かう言ふ見方は、必しも正確を保する事は出来ない。が、一応は考へに置いて見る必要がある。
ひと言
私の言ふべき事は、単に緒についたまでゞある。此等の海及び山の流離民《ウカレビト》が、国中を漂遊して、叙事詩、抒情詩を撒布して歩いた形から、其が諸国に諸種の文芸を発生する事を述べるのは、此からである。其上、其中心は、何と謂つても、都の流行である。此芸能者の交迭が、色々な文学・芸能を、宗教的に説経的に生んで行く事を、もつと落ちついて咄す筈であつた。だが、其に入る前に制限は、既に遥かにのり越してゐる。是非なくこゝに筆を擱く。だが、日本の唱導文学は、此後何時までも、江戸の末期までも、形こそ変へたれ、主題は一つ。神――及び仏――の流離|転生《テンジヤウ》を説くものゝ、種々な形の変化である。さうして、其が近代ほど貴人となり、又理想的雛男となり易るだけであつた。さうして、江戸期において、ほゞ大きな四つの区分、説経・浄瑠璃・祭文《サイモン》・念仏が目につくが、此が長く続いた叙事詩の末である。其他にも幾多の芸能文学が出没したが、すべて皆奴隷宗教家の口舌の上に転《コロ》がされることによつて維持せられて来た事も、一つの忘るべからざる事実である。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
初出:「日本文学講座 第二巻」改造社
1934(昭和9)年8月
※底本の題名の下に書かれている「昭和九年八月、改造社「日本文学講座」第二巻」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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