に著しく出て来た。良経の方には、此を飜案した歌がある。院のは、しらべ[#「しらべ」に傍線]の上に出された。此から見ると、院の方が良経よりも味ひは体得して居られた。
芸謡中の語は、既に以前にも、作中に詠みこんだ人もあるが、院のは、其なげやりぶし[#「なげやりぶし」に傍線]の拍子が其まゝ出てゐる。
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ふる郷を、別れ路に生ふる葛の葉の 秋はくれども、帰る世もなし(増鏡)
思ひ出づるをりたく柴の 夕煙。むせぶも嬉し。忘れがたみに(新古今巻八)
秋されば、いとゞ思ひをましば刈る 此里人も、袖や露けき(玉葉巻四)
思ふこと 我が身にありや。空の月。片敷く袖に、置ける白露(新後拾遺巻五)
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だから此等の歌なども、従来の歌にすると同じ鑑賞法で見ては、間違ひである。西行のわびしさ[#「わびしさ」に傍線]よりも、民間のため息調をいちはやく理会せられたのだ。上方・江戸の長唄・端唄・浄瑠璃などを通じて出て来る唄の利き文句には、古くからの伝襲が多い。地方の民謡には、まだ完全にも、崩れた形でゞも、室町時分の俤を残した歌が、現実に謡はれてゐる。院の御製に、江戸の中頃や末に起つた歌浄瑠璃や、端唄・小唄の発想法や、其感触が交つてゐても、不思議はないのである。平安末の雑芸《ザフゲイ》には、江戸の初期にも、まだ節の末が残つて居た。貫之や清少納言の興味を唆つた童謡・小唄・雑芸などより、又梁塵秘抄の讃歌・神歌以外の雑歌――催馬楽・風俗式の内容よりも、更に新しく――次に起らうとしてゐた閑吟集などに採用せられたしらべ[#「しらべ」に傍線]・感触である。誰も成功しなかつた民謡調を、存外すら/\としらべ出されたものと思ふ。
後鳥羽院の「思ひ出づるをりたく柴の夕煙。むせぶもうれし。忘れがたみに」の歌と関係のある
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何とまた 忘れてすぐる袖の上に、ぬれてしぐれの おどろかすらむ(家長日記)
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なども、「何とまた」からして味ひが違ふ。頼政の「これ聞けや」などの系統である。此等の御製は、歌としての値うちは別として、長い陣痛の後に発生するはずの文学様式を、わりにたやすく暗示せられた。併し此が、一時の試みとして過ぎたのは惜しかつた。
新古今の同人等の、道ぐさに行きはぐれた正しい道は、玉葉の為兼によつて明らかに具体化せられた。併し、後鳥羽院の、或は無意識に追求して居られた所の口語脈の歌は、其まゝに絶えて了うた。此が順調に育てば、なげぶし[#「なげぶし」に傍線]――の古い物――などよりも、もつと正格な文学様式としての、新詩形が出来たかも知れない。為兼に完成した態度は、遥か後、明治大正に到つて、更に正しく実生活を裏打ちにした。経信や俊成、俊慧や為兼等の理想したらしい境地は、もつと深く細やかに開拓せられた。さうして、短歌の本質の限界で出来る限りの、変化はした様に見える。併し、口語発想による様式は、今におき、成立しては居ない。57577の形に、口語律を妥協させ、個性の新しい姿を折り枉《ま》げて居る。後鳥羽院の時代よりも、遥かに、短歌律と口語律とは別れて来てゐる今日に、かうした試みは望みがない。若《も》し、院の此方面の為事が完成してゐたら、わりに順調に進んで来たらうにと思ふ。
事実、院ほど、本質的にしらべ[#「しらべ」に傍線]を口語脈にし、発想法をばある程度まで変化せしめた歌人は、明治大正の新歌人の間にもなかつたのである。此試みの、試みとして終つた事は、後鳥羽院の態度によるのである。出来心からの享楽作物として作られたのに過ぎなかつた。其に、度を越した趣味の広さが、こんな点にばかり、渋滞させてゐなかつたからである。でも、文学史上のあの時代の事情から見ると、院の行くべき歌風は、茲《ここ》にあつたのだと思はれる。
後鳥羽院の性格と時代の好みとは、院の努力と執著とで新古今までは、引きづり揚げられて来た。併し、玉葉集に達するまでに、時代は背いて了つた。其は承久の事変があつた為ばかりではない。後鳥羽院御一人の為事として、静かに個性を貫いて行かれたら、行きついたはずのものであつたのに、あまりに道伴れが多きに過ぎたのである。後鳥羽院御自身すらも、自ら拍子をとつた声の波のてに溺れて、あらぬ方へ/\と抜き手をきつて居られた。さうして、ひよつと首を擡げた処に、偶然あつた新しい島に上つたかと見る中、再、復《また》波を潜かれた。
文学朋党が、一人の為に率ゐられてゐる時は、常に、正しい道を失ふ。後鳥羽院は盟主として、その朋党の間に※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]釀《うんぢやう》せられた潮流に、第一義の素質的創作動機を落された。さうして、第二義以下の趣味や、一時的な興奮を、逐ひ続けてゐられたのである。さうして、其盲動から達したところも、一つの文学の新しい処女地ではあつたけれども、追随者の向ふ方角に気《ケ》どられて、自ら亦踵を返された。盲動であつたが為に、群行の中で、静かに一個の芸術を絞り出す思案をする間がなかつたのだ。
西行は、ともかくも個性に徹した文学を生んだ。其は、根本的に多少の拗曲を含んでゐたが、何にしても、江戸に到るまで、隠者階級の生活態度に、一つの規範を加へた。芭蕉は、彼の作物からわらひ[#「わらひ」に傍線]とわびしさ[#「わびしさ」に傍線]とを、とりこんだ。さうして芭蕉自身の絶え間ない文学的死と、復活とによつて、完全に主義とし、態度とした。さうして其影響を、国民の生活情調に滲み入らせた。孤独にして悲劇精神を持ちこたへて行つた西行の為事は、芭蕉の主義宣布以前に、近世日本の正しい芸術傾向と見做されてゐる心境をつくりあげてゐた。西行既に主義態度を思ひ到らないでも、実感と個性とに徹する事によつて、実現してゐた。
勿論西行とても、態度として、幽玄主義をとつたこともあつた。けれども、其素質が、真の寺家風でなく、堂上風にも向かぬわびしがり[#「わびしがり」に傍線]とうき世知り[#「うき世知り」に傍線]であつた。其事が、却つて思はぬ方向で、幽玄は、神秘でもなく、妙不可説でもない事を証明する作品を生んだ。自然に持つた様な理会で、人にも対してゐた。自然其物に向つても、人に対する如き博い心と、憐みとを持つことを得た。俊成の「鶉なくなり」の歌は、其かみ俊慧法師の加へた批判を、今も変へる事の出来ない弱点を備へてゐる。「花も紅葉もなかりけり」の定家の自讃歌も「浦の苫屋」又は「秋の夕ぐれ」の語の持つ歌枕式の、知識感銘を忘却した後世では、どう心持ちを調節しても、野狐禅衆の幻としか見えない。
「心なき身にもあはれは知られけり」も、その一類の主義から生れた文学である。が、西行として見れば、活路はある。「心あらむ人に見せばや」の本歌の「津の国の難波わたりの春の眺め」を見た時、自分の外にも話せる相手を思うた本歌に、敬虔な気持ちで対したのである。能因が歌枕を書いた――?――時代と、西行の時勢とでは「心あり」といふ語の用語例も非常に変化した。抽象化せられ、理想化せられた其内容は、前にも述べたとほりである。西行自身などを典型的なものとせなければならぬ生活情調を意味する事になつて来た。「心ある」状態が「あはれ知る」心境を中心にして「いろ好み」の情趣と、段々離れかけてゐたのだ。王朝末に寺家の作風から導かれた新しい文学態度だつたのである。
だから「心なき……」と言うても、反語を含んだ遠慮を表す意味のものではなかつた。春のけしき其他から刺衝せられて「心ある」状態に入る事の出来ぬ我からも、感じる事が出来る。わびしさ・寂しさを思ひ沁ませる風物の味ひを、概念式に知る事が出来ると言ふのである。かうした「こゝろ」がどういふ風に、新古今の作風に触れて行つたかを示す為に、私としての解説を加へて置かう。
人里遠い山沢《ヤマサハ》で、身に近く鴫《シギ》のみ立つてはまた立つ。此ばかりが聞える音なる、夕ぐれの水際に来てゐる自分だ。まだ純粋な内界の事実とはならない外的情趣。其だけは、古人たちの言ふ所が、此だなとまでは直観が起つて来る。かうした事が、少し誇張せられて出てゐるのである。
「鴫たつ沢」の、地名でないと言ふ説が、有力になつて居る。けれども、歌枕の上の固有名詞と言ふ物ほど、あやふやなものはない。一度歌の上に有力に用ゐられたものは、歌枕となり得たのである。歌枕に入れば、実景を背景にして固有名詞感を持たせる様になる。鴫たつ沢の風色を思ひ浮べると同時に、歌枕なるが故の地名的理会が、人々の気分に起つたのである。土地としては優雅な固有名詞を持ち、幻影として伴ふは、其沢の名に負ふ寂しい鴫たつ様である。此関係は、誹諧・発句の季題の効果同様であつて、其導きを為すものであつたのだ。
かうした幻影を被つたかうした土地に、秋の夕ぐれ、孤影を落して立つ様をも思ふ事の出来た当代の人には、心なき身といふ語も、決して反語とはとれなかつたであらう。俊慧に言はせれば「知られけり」が「野べの秋風身に沁みて」同様の見方から「腰の句したゝかに言ひ据ゑたり。あはれ乏し」とでも言ふだらう。けれども此歌、西行はやはり時代的文学態度から、極めて自然に作り成したので、近世の人の考へる様なこけおどし[#「こけおどし」に傍線]風な考へは、まじへなかつたらう。
後鳥羽院は、心ある[#「心ある」に傍線]方であつた。併し其は、前代の用語例に入るものである。当代の用法では、もう完全な「心ある」ものではなかつた。西行等の作物を中心として見られる「こゝろ」は、いろごのみ[#「いろごのみ」に傍線]に添へる一種の匂ひとして、とり込まれたに過ぎない。恋愛の孤独観や、風物の唆る哀愁、かうした方面に、影響が来た。孤独であつてもかそかな[#「かそかな」に傍線]ものではなかつた。悲しくても、涙に誇りを感じる廃頽味を持つてゐた。此が一脈の糸筋を、前代以来の雑芸・小唄と引く、閨怨のあはれさであつた。だから、心ある[#「心ある」に傍線]方に進まうとすればする程、前代の、いろごのみ[#「いろごのみ」に傍線]・ものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍線]を知ると言ふ内容に入るばかりであつた。院の如きは、平安中期ならば、典型的な心ある[#「心ある」に傍線]人であつたはずだ。が、後鳥羽院は、寧、太みに徹し、たけ[#「たけ」に傍線]ある作物と生活とを、極点まで貫かれたらよかつたのである。独り思ふ境涯に立つか、或は素質がさうだつたなら、群集の中にゐても、孤独を感じ得たであらう。が、院には、さうした悲劇的精神は、此隠岐本を抄して居られる間にも、やはり徹底しては、起つてゐなかつたものと思はれる。
或は思ふ。大きな永遠の意志があつて、至尊風の歌風を貫かさうと言ふ方に、院を向けてゐたのかも知れない。真のこゝろ[#「こゝろ」に傍線]を、至尊族伝来の太み[#「太み」に傍線]から拓かせよう、と企てゝ居たものと思ひ見ることも出来よう。ある畏しい驚くべき時運の退転を促して、享楽生活から一足飛びに、孤独を思ひ沁み得る、沖つ国に据ゑ奉つたのかも計りがたかつた。でも、院の持たれた太み[#「太み」に傍線]は、あまりに享楽の色合ひを帯びてゐた。院に於て、此等の調和は、廃頽主義の韜晦味を基礎としてゐる様な形をとつた。若し、後鳥羽院が、至尊風の気稟の上に、真の孤独の境涯を拓かれたとしたら、さうした民謡風な末梢的興味や、新古今の健全な成長身たる玉葉集などにも止つては居なかつたであらう。
やまとたける[#「やまとたける」に傍線]の尾津[#(ノ)]崎に忘れ置いた十束劔は、時を経ても、一つ松の枝に、さながらに残つてゐた。「尾津[#(ノ)]崎なる一つ松あせを」の歌は、古代人の理想的人格にのみ考へた、無碍孤独の境涯から出た物であつた。朗らかで、こだはりのない、英雄一人の外には、行く人のない天地であつた。西行から芭蕉へ伝つたこゝろ[#「こゝろ」に傍線]は、自然主義上の普遍性であつた。忘れてゐた共通を、とり出すものである。効果は謂はゞ、平面的の拡りを持つ。此に対して、人生に新しい真理の附加せられるものゝあるは
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