女房文学から隠者文学へ
後期王朝文学史
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)読人《ヨミビト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)春秋|諍《モノアラソ》ひ
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「代/巾」、第4水準2−8−82]《ふくろ》草子
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)額田[#(ノ)]王の
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一 女房歌合せ
数ある歌合せのうちに、時々、左の一の座其他に、女房とばかり名告つた読人《ヨミビト》が据ゑられてゐる。禁裡・仙洞などで催されたものなら、匿名の主は、代々の尊貴にわたらせられる事は言ふまでもない。公家・長上の家で興行せられた番《つがひ》の巻物なら、其処の亭主の君の作物なる事を示してゐるのである。此は、後鳥羽院にはじまつた事ではなかつた。かうした朗らかな戯れも、此発想競技と、女房との間に絡んだ幾代の歴史を踏まへて、極めて自然に現れて来たのである。
私は、此文の書き出しに、都合のよい機会《ツイデ》に行きあうた様だ。文学史に向けて持つて来た、私の研究の立ちどの、知つて置いていたゞけさうなよい事情になつて来たことである。現在ある様式や、考へ方は、幾度幾様とも知れぬ固定や、其から救ひ出した合理化の力を受けて来たのだ。宮廷は勿論、上流公家の家庭生活の要件として、曾《かつ》ては生きてゐた儀礼が、固定を重ねつゝ伝承せられて来た。女房と歌合せとの関係も、そこにあるのだ。
大きな氏族或は邑落では、主長の希望や命令を述べた口頭文章が、公式には、段々複雑な手順を経て伝達せられる様になつた。が、非公式に出るものは、家あるじの側に侍る高級官女――巫女の資格を以て奉仕した――に口授せられたものが、其文句の受けてに其まゝ伝達せられたのである。宮廷の内侍宣《ナイシセン》など云ふ勅書は、此しきたりから生れたのだ。「上の女房」と言はれたものは、言ふまでもなく、宮廷の官女はすべて、前期王朝には、神の摂政たる主上に仕へる巫女であつた。宮廷と生活様式を略《ほぼ》一つにした氏族の長上――後期王朝の古い家筋の公家は、其が官吏化したもの――も、古代には、邑落や、民団の主長としての――神となれる――資格を持つた。其に伴つて、氏族の巫女を使うて、さうした用をさせてゐた事は察せられる。「宣旨」と言ふ女房名の、広く公家にも行はれたのは、此因縁である。手続きの簡単な宣が、文書の形を採つたのは、公式の宣命・詔旨などの様式の整備せられたのに連れて、起つた事らしい。
此が、平安の女房中心の宮廷文学を生む、本筋の原因でもあつた。今は此以上、女房の文学・仮名記録を説いてゐる事は出来ない。唯、其相聞贈答の短歌を中心に、多少律文学の歴史に言ひ及すことは、免《ゆる》されて居る、と思うてもよさ相である。其に、当面の問題なる女房の「歌合せ」に絡んだ点を言ふ事は、勿論許されてゐることにしておきたい。
宮廷の女房は、主上仰せ出しの文章を、筆録して伝達することが、伝来の役儀である。さすれば、御製の詞章は女房が筆録し、ある人々に諷誦して聞かせ、後々は段々、整理保存する様になつた事は、考へてさし支へはない。主上の作物ながら、女房の手で発表せられるのだから、仮り名として、無名の女房を装はれる様になるのは、自然な道筋である。
歌合せの、刺戟となつた点だけから見れば、在り来りの聯句・闘詩起原説は、手を携へて見る事が出来る。だが、平安初期の貴族・学者の流行させた詩合せや、聯句からばかり発生した、と唱へる常識説は、どうあつても、承認が出来ない。
歌合せの異式とも見える「前栽《センザイ》合せ」は、消息の歌文を結ぶ木草の枝の風流から出て居る。歌合せは整理せられて、宴遊の形をとつた。だがよく見ると、厳かな神事から出た俤を止めてゐる。つけあひ[#「つけあひ」に傍線]は、連歌誹諧を形づくつて行つた。此側には、機智と、低い笑ひとが、宿命的にくつゝいて居た。賦物《フシモノ》の如き、無意義な制約の守られて居たのも、出発点がさうだからである。
だが、此二つは、発生点は一つであり、分化の過程にも、互ひに深く影響し合うて来た。歌垣と、歌垣以前からあつた神・人問答の信仰様式から出た種子が、灌木や、栽ゑ草の花と、其に寄せた歌との調和をめど[#「めど」に傍点]にしたものであつて、歌合せの興隆にさのみ遅れた流行ではない。其が更に、後の貝合せ・艶書合せと称する「恋歌合せ」に移つて行つた痕まで、一筋に通つてゐる。
かうして見ると、詩合せから受けた影響は、先進学者の予断よりも、ずつと微かであつたことが知れよう。片哥や、相聞の類の、歌垣の場《ニハ》に発生した唱和・贈答の発想法は、いろ/\に分化して行つた。旋頭《セドウ》歌の如き、単長歌の如き、或は短歌の類まで、皆此かけあひ[#「かけあひ」に傍線]・つけあひ[#「つけあひ」に傍線]の発想をば基礎にして居るのである。此形式方面を多分に伝へて完成したのは、歌合せと連歌とであつた。かけあひ[#「かけあひ」に傍線]は、言語の上の詭計式の表現や、機智ではぐらかしたり、身をかはしたりする修辞法を発達させた。天徳四年内裡歌合せは、女房歌合せと称せられたものである。宮廷の歌合せの古くよりあつた事は、万葉巻一額田[#(ノ)]王の「秋山われは」の歌を、最正しく考へることからでも言へる。「歌を以て判ずる歌」と序にあるのは、額田[#(ノ)]王以外の人々も、歌を以て主張したものと見る方がよいのである。「春秋|諍《モノアラソ》ひ」の極めて古い形なのであつた。
歌垣の歌の、古詞何々|振《ブリ》を繰り返す様になつて行く一方に、風雅な遊戯・宴遊の方便に用ゐられた側が、次第に、文学態度の意識を生じて来た。万葉の群詠の中には、さうした部類に入るものが尠くない。古今以前の在民部卿家歌合せなどを中に据ゑて見れば、歌合せの固有種子なる事はわかる。天徳のを女房歌合せと言ふ訣は、後宮方の歌合せなる事を露《あらは》にして言はねばならぬ理由のあつた為なのだ。
当時公卿等は、流行の詩合せに専心になつて、歌合せを顧みなくなつて居た。それ故《ゆゑ》行うた女房の中からも、読人・方人《カタウド》を出して、男歌人に立ちまじらせた歌合せ――七条後宮歌合せ・亭子院歌合せなど――は、かうした流行に圧されて行つた。其為、かうした催しが、後宮から発起せられて、左右の頭《トウ》を更衣級から出し、方人《カタウド》に女房を多く列せしめた。競技者たる読人の中にも、女房が立ち交つてゐる。だから女房ばかりの歌合せの意ではなく、後宮の人たちが亭主となり、興行者となつて、催したと言ふ義であつた。
七条後宮歌合せや、中興の此歌合せが先例を作つて、歌合せの本格は、女房の興行によるもの、と思ふ様になつて来たらしい。其で、主催者たる家あるじは、女房のつもりで居り、読人に立つ時は、表面、名は「女房」と清書させた、と言ふ事情も考へられる。
要するに、尊貴が亭主たる場合、女房の手から、番歌を降される様な例が出来てゐた。寛平歌合せの如く「上御製」など清書せられた例もあるが、次第に、女房歌合せの慣例と、尊貴の御名を忌む風習とからして、女房名を署する様になつたのである。宮廷と事情を一にして進んで来た貴族の方でも、自然主催者たる家長の名を、女房とする様になつて行つた事は訣る。一応表面的に、詩合せに促されて頭を擡げ、文学意識も起つたことは言うてよい。漢文学の素養と興味とが、社会的に衰へて来ても尚、詩合せを第一と考へ、歌合せを卑下する習慣は久しかつた。其が新撰万葉などから暗示を得、朗詠集の類に気勢を煽られて「詩歌合せ」がものになつて来たものと考へる。
連歌までが、詩句や、漢文調をとり込む様になつて行つた。連歌が、始終歌合せから刺戟を受けてゐたからである。宮廷や貴族の家の女房の職掌展開の径路との絡んだ因縁と、交錯してゐる事は、事実である。唯、歌合せの女房の意義が、「女あるじ」の義であるか、其とも亭主の代りに歌を扱ふ侍女の義であるかは、簡単には言ひきれぬことである。
秋篠月清集と云ふ表題からは、良経はじめ新古今同人の生活態度のある一面を演繹して来ても、よい様に思ふ。後鳥羽院にも、ある時は左馬頭親定と言ふ変名を使うて居られた位である。
たゞの上達部《カムダチメ》や、伝統の絡んだ重苦しい氏の名などゝは違うて、きさく[#「きさく」に傍点]な、自由な感じのする、ありふれて居ない姓や、位も、官も脱ぎ棄てた様に、通り名や、法名だけで通つて居る隠者などから受けるさば/\した気持は、想像出来なくはない。それとても、趣味と言つた程度のものに過ぎなかつたであらう。王朝末から著しくなつた上流の人々の、低い階級の生活に寄せた驚異の心は、段々深まつてゐた。異郷情趣に似たものに、はずませられて、思ひもかけぬ世相を実験した向きも多く出て来た。一つは、此為でもあらう。
第一番の理由としては、歌合せ・連歌の持つてゐた如何にも新興文学々々した、鮮やかな印象から来てゐる事である。恣《ほしひまま》な朗らかさが、調子に溢れてゐた。伝統の鬱陶しさも、まだなかつた。実は、文学の一様式として認められ出した王朝末にすら、既に新味のない固定したものであつた。其が詩歌合せの流行によつて、初めて文学態度に這入つて来て、ある方面では、生れ更つた様になつた。一番々々|番《ツガ》へられる相手方の詩句は、漢詩としては類型式なり、断篇風な物であつても、此先進文学の持つよい態度が、敷き写しに伝へられてゐた。漢文学には、歌には忘れられ勝ちな文学意識だけでもあつた。対句詩人すら其を失はずに居た。
日本の漢詩は、字面は支那の律に従うてゐても、実は変態の国文として訓《よ》まれ、詠ぜられて来た。固有の詞章になかつた音律が、古く和讃・踏歌に伴うて起つた。催馬楽・朗詠・今様でこなされて、漢詞章と日本歌謡との音脚・休止から、行の長さまで調節せられる様になつた。国民の内部律動が、さうした音律に叶ふ事が出来る様になつた。其上、此新しい拍子に乗らねば表現出来ぬ内生律さへ生じて来た事である。其代表に立つものは、此時代に完成した宴曲・早歌《サウガ》の一類である。
上元の歌垣が、漢訳せられ、習合せられて、踏歌節《タウカノセチ》となつた事は、疑ひもない事である。さすれば、其|喰《ハ》み出しの部分の、主因となつて、歌合せの形を纏《まと》めて来た径路も察せられる。原則としては、男女入りまじりであつたものが段々姿を変へて行つた。
女房方のあるじぶり[#「あるじぶり」に傍線]で、女房をも番に組む。さうした歌の対抗《アハ》せの盛んになるに連れて、此までなかつた事がはじまつた。神秘主義の薄らいで来た宮廷では、天子・中宮すら、かうした競技に加はられてもさしつかへない様になつて来た。古今集に、当今の御製のないのも此為だ。時としては「上」或は「宮」などの称号を以て示してゐる。が、此は後の書き直しで、恐らく伝達した女房の名或は、単に女房として、出詠せられたものであらう。さうした女房が、古い歌合せにも多い。だから、後鳥羽院に始まつた事とは言へないのである。唯、此頃になつて其が、亭主としての権威を示す方法の様に、考へられ出したのも、事実である。
六百番歌合せにも、さうした気持ちから、亭主の良経は、番の歌には女房を名告つてゐる。此風は後程盛んになつて、表は全体匿名の歌合せすらある。戦国の浪人や、其意気を守つた江戸初期の武士などの間にはやつた「何々之介」と言つた変名も、起りは一つである。此は、室町以来の草子・物語から来た趣味の応用であつた。鎌倉の昔も、さうであつた。歌は学問であつて、才芸ではなかつた。歌合せ・連歌、皆文学意識は持たれて来ても、遊戯であつた。文学らしくなればなる程、韜晦趣味・ちゃかし[#「ちゃかし」に傍線]気分が深
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