まつて行つた。歌は真の文学に据ゑられながら、同時に、生活の規範となつて来た。文学としての内容を持ち、新しい観照態度を与へて居ながら、歌合せ・連歌は文学ではなかつた。でも、今から見れば、其が文学意識から出てゐたのだ。さうして、其から出て来る態度は、逃避・傍観・偸安であつたのだ。文学が文学でなく、非文学が却つて、文学の種子を含んで居た訣である。
連歌・誹諧を無心体、其作者を栗[#(ノ)]本衆と呼んだと伝へてゐる。其は、親しみから出た軽い嘲笑を含むに過ぎないが、柿本朝臣の流のまやかし[#「まやかし」に傍線]物の意義である。この時代の「心ある」といふ語《ことば》は、自然・人間に現はれる大きな意思を感じ得る心である。人間らしい人の、きつと具へねばならない優れた直観力である。風雅に対する理会力は、心ある[#「心ある」に傍線]状態の、ほんの上面《ウハツラ》の意義である。無心は、そつくり其逆を意味する程ではなかつた。其にしても、没風流の上に、ものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍線]を度外視して、うき世に沈湎する人・悟り得ぬ不信者など云ふ義はあつた。さうした連歌も、有心衆が一切指を染めない訣ではなく、却つて盛んに弄ばれた。遊戯と実事と、此両方面が、当時の文人の心に、差別なく影響を与へてゐた。其は歌の上の事である。平安末期の初めまでは、歌合せは、神事の古い姿を備へてゐた。其が、後鳥羽院になつてから、ずつとくだけて、宴遊の形を持ち出した。歌合せに臨んだ気安さと、隠者趣味――当時唯一の文学者式の生活――が、高貴の名の持つ伝来の風習を、合理化して了うたのだ。
二 隠者の文芸
王朝の末百年、とりわけ目立つて来たのは、平賤階級の生活を知つた、上流の人々の驚異の心であつた。其動機は数へきれないが、文芸から見れば、小唄・雑芸《ザフゲイ》・今様類の絶え間ない刺戟を、まづ言はねばならぬ。此が、新興文学らしい勢の、受け入れ易い連歌に影響した。其ばかりか、後鳥羽院は、院[#(ノ)]御所や水無瀬殿で、今様合《イマヤウアハ》せを催して居られた。此今様合せなどから、歌合せも気易く考へられるやうになつた。
此は、後白河院あたりの蹤を追はれたものであらう。恐らく王朝末に新詩形として、明らかに意識に上つたし、実は後期王朝の初めからあつた今様は、声楽たると共に、文学様式の一つとして用ゐられた。而《しか》も直ぐ様、節にかけて謡はれる詞曲である事が、流行を煽らないでは居なかつた。今様合せも、元の形は、うかれ女の咽喉よりは、其文句を聞いて、優劣を定める処にあつたのであらう。即歌合せの披講よりは、近代様の節廻しで、読み上げられたものであつたらう。とりも直さず、二句の短歌の替りに、四句の形を以てせられた歌合せと謂つた姿である。
だが、今様合せは、歌合せの様式を、まる/\模倣したと言はれぬ。却つてそこに歌合せの第二因がある。大寺の間に行はれた講式讃歌の元々|偈《げ》として独立もして居た部分、此が宮寺の巫女の法文歌として独立する訣はある。同音で唱へる場処と、交互に謡ふ場処とがあり、其処が「論義」風に唱和態を採るものであつたからだらう。寺にも勿論、此形が行はれて、今様合せの形は整うたものと思ふ。此が、宮廷の歌合せの闘詩・聯句の後入因を併せたものと、一つになつて了うたのであらう。
其外に、一歩進んで、讃歌体に、奈良以前からも試みて居た所の、短歌の形による讃歎詞があつて、平安中期固定の神楽歌――今の所謂《いはゆる》――にはなかつた讃頌或は、宣布の目的に叶へようとした。かうして出来た釈教歌が、僧家の鬱散に弄ばれる様になるまでには、長い時を経た事であらう。さう言ふ短歌の形の讃頌が、やはり、今様の発生と似た道筋を、通つた事は察せられる。女の側の歌垣が、踏歌に習合せられたと同様に、男の方では、寺家の講式・論義と併せられて、痕を止めてゐたと見る事も出来る。で、女房の贈答の巧みなのに対して、法師の唱和に馴れてゐた事実も説明はつく。説経僧が、即座に歌を詠んで、聴問衆を感動させた例は、※[#「代/巾」、第4水準2−8−82]《ふくろ》草子・今昔物語などに見えてゐる。内道場などに出入る僧の、女房とかけ合せた恋歌の形をとつたものゝすべてを、直に、堕落の証と見ることは出来ない。寺家の歌が、さうした道から習熟せられて、遂に一風を拓く様になるまでには、二通りの別な傾向が見られる。
宮廷の流行を逐ふ軟派と、時流に染まないで、讃頌の旧手法を保つてゐた謂はゞ硬派に這入る者とがあつた。此方は、ごつ/\して、歌の姿や、しらべには無貪著《ムトンヂヤク》である。仏語を入れるかと思へば、口語発想も交へる。平民生活の気分も、自然出て来て居る。鄙《ひな》びては居るが、信頼の出来る、古めかしい味ひを持つてゐた。此二派のけぢめ[#「けぢめ」に傍線]の朧《おぼ》ろになつたのは、平安中期の末頃と見てよかろう。其頃出た恵心僧都は、これを狂言綺語として却《しりぞ》けた。僧房の無聊を紛す贈答の歌が、心やすだてのからかひ[#「からかひ」に傍線]や、おどけ[#「おどけ」に傍線]に傾くのは、ありうちの事である。歌がらの高下を構はぬ、自由な物言ひもする。金葉集の連歌作家に、法師の多いのも合点がゆく。相聞・問答の歌は、いつも相手の歌の内容を土台として、おし拡げて行つてゐる。跳ね返しのもあり、あまえるのもあるが、唱《カケ》の歌に与へられた難題を釈《と》く、と云つた態度のはない。此は、旋頭歌で見ても、さうだ。
古今の誹諧歌には、まださうした傾向は、著しくはない。「何曾《ナソ》」合せの影響を受けたことは勿論であるが、寺家の論義問答の方式を伝へて居るのであらうかと思ふ。歌と論義との関係は、今昔物語の行基・智光の件でも知れる。説経師に対して「堂の後の方に、論義を出す音あり」智光「何許の寺なれば、我に対《むか》ひて論義をせむずるならむと疑ひ思ひて、見返りたるに、論義をなす様、真福田《マフクダ》が修行に出でし日、葛袴《フヂバカマ》我こそは縫ひしか。片袴をば……」とある。論義即「歌問答」である。百因縁集には「真福田丸が葛袴《フヂバカマ》。我ぞ綴りし。片袴」となつてゐる。今様合せの片方の形である。尚、歌論義と言ふ書物さへあつた。
此考へ方からすれば、今様合せは勿論、連歌・歌合せの、講式や論義から出て居る点が考へられる。歌垣から流れ出た種子が、独自の発達をしてゐた傍、仏家の法式や、漢文学の態度に内も外も洗煉せられて、真に文学らしい形を具へて蘇つたのは、やはり新古今集と時代を一つにしてゐる。殊に、連歌はさうである。連歌の復活した事を時代の目安として、武家初期の結界を劃したく思ふ。連歌・誹諧の発想法の成立した事は、日本の精神文明の上の大事件である。支配階級の更送や、経済組織の変改などを、其原因と考へるだけでは足らない。其は、連歌・誹諧から、新しい生活の論理が導かれた事である。
良経の変名から、隠者階級の文学の影響が見たいのだ。「秋篠や外山の里に清む月」を独り眺める隠士の境涯に、懐しみを持つ自分である事を示し得る変名は、若い文学者らしい心を悦ばし、慰めたに違ひない。恐らくは、秋篠近い「菅原や伏見の里」に住んで居たといふ伏見の翁などを、めど[#「めど」に傍点]に据ゑて居たのであらう。此若い貴人の生れた頃から、さうした生活様式が、世間に認められて来かゝつたのである。
王朝末には、仏徒自身の生活態度が省みられ出した。大寺院は一つの家庭で、在家と等しい、騒しい日夕を送らねばならない。心深い修道者は家を捨てゝ這入つた寺を、再、捐《す》てなければ、道心は遂げられなかつた。出家の後、寺には入らず、静かな小屋に、僅かな調度を置いて、簡素な生活を営む。庵に居る時は、仏徒としての制約によつて居るが、世間風の興味も棄てるに及ばぬ自由を持つて居た。才芸に関する事は、禁欲の箇条に触れない。楽器・絵巻などさへ、持ちこんで居た。里や都に出れば、権門勢家に出入りしては、活計の立つ位の補給を受け、主として文芸方面の顧問としての用を足したのであつた。王朝末期には段々、女房の才能が平安朝に成立した其職分を果すには堪へぬ様になつて来て、女房のした為事は、段々其等隠者の方へ移つて行つた。此が、武家初期・中期(室町以前)から後期の初めに亘つての隠者の文学と、変態な生活法とを作つて行つたのだ。
かうした修道生活の徒の存在が明らかになつたのと、連歌復活とは、時を一つにして居た。だから女房の文学と、隠者の文学との交替を、時のめど[#「めど」に傍点]として、時代をくぎつてもよいのである。庵室に住んでゐるのが、隠者についての先入主だが、此時代の隠者には、まるきり僧侶の制約に従うて、唯定住する所を持たぬを主義とする、雲水行脚の法師も籠めねばならぬ。其上、かうした階級の発生点になる人々の事も考へねばならぬ。身分は、公卿の末座、殿上人の上席などに居た者で、文芸・学問・格式などの実務に長く勤めた経験家が、其である。此は、歌会・歌合せには、古く五位の文官・武官などの歌詠みと聞えた者の、召される習はしがあつた為である。さうした人の一家をなした後を承けた子孫にも、この部類の人があつた。さうした文芸・学問・格式などに通じた、謂はゞ故実家に過ぎない人は、老後、法体して隠居しても、家を離れないで、俗生活をしてゐる。さう言ふ文芸的故実家の伝統は、存外早く現れないで、王朝も末一世紀半の中頃から、目について来るが、此までの歌論家・歌学者は、大抵、公卿の中位以上の人であつたが、文芸を愛好する階級も段々下つて行つた此頃になると、さうした故実家は、公卿の末席か、其以下のものに多くなつて行つた。権門に出入りして、私に親方・子方に似た関係を結ぶ風が、盛んになつて行つた。
題材や格調の新しい刺戟が、詩歌合せから歌合せに来た。わが文学評論の初歩と見る可き歌学・歌論は、歌合せの席上から生れたのである。新しい歌合せは、歌評から見ても、前代の歌学書・歌論書よりは、用語も、態度も、論理も、鑑賞も、文学的になつてゐる。前代の歌合せの左右講師になる人は、歌の学問・故事を知らねばならぬのだから、講師に択ばれる様な人は、段々師範家と云ふ形をとる。さうして其が、判者となり、勅撰集の選者たる地位を得る。名高い歌人は、文学者と云ふより、歌学の伝統を守る者、と云ふ方がよい位だ。其最後に出て、歌学の伝統をあら方集大成したのは、藤原俊成である。此人の態度は、即新古今集の中心となつた歌人らの主義と見てよいであらう。俊成は、神秘主義に煩はされてゐるが、芸術報恩説に達したのは、一途であつてうや/\しい性格と文学に持つ愛執の深さからである。
鴨長明のやうな半僧生活の修道者もあれば、又、西行の如き法師も含つてゐる隠者階級には、かうした堂上の故実伝統者も数へねばならぬ。此流の者は、皇族を大檀那とする事によつて歌道の正統なる事を示し、中央地方の武家階級の信用を固めて、利福を獲ようとするまでになつた。定家が既にさうであり、其子孫皆、其方便に従うた。あちこちの権門をたのんだのが、かう言ふ意義から二流の皇統に岐《わか》れて奉仕した。新古今時代には、一時、伝統のまゝそつとして措いて、各流から超越した態度を示した。此も、新古今集の批判に忘れてはならぬ、極めてよい態度である。後鳥羽院の個性を、おし貫かれた結果である。
歌道の故実家伝統の間から抜け出して、新しい暗示をば具象化しようとした俊成の代表作物は、実は彼自身の感じた、正しい未来の文学其物ではなかつた。新古今の歌人たちも、俊成風の正しい成長と思うて居たであらうが、此|亦《また》逸れて外核ばかりを強く握りしめたに過ぎない。長明・西行・俊成を三つの隠者の型に、其が由来する所を説いた。此後続いた隠者の外的条件は、鴨長明がしたと信ぜられてゐる、第一の様式である。こゝに言ふ武家初期と、中期全体、それに末期|即《すなはち》江戸のさしかゝりまでは、かうした隠者が文学の本流になつて居るのである。
此時代に進むと、隠者の存在は、必然の意義を社会に持つものと見えて来る。俊成な
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング