劇的快感を表さうとしたのだ。作歌には誤算があり、主義態度の目覚めがなかつた。幽玄体も、此でおして行つて到着すべきであつた。主義としての理智に囚はれて、しらべ[#「しらべ」に傍線]から幽玄を滲ませようとせず、思想で見せようとした。だから彼の自讃したらしい作物の方に其はなかつた。却つて女房風のねつとり[#「ねつとり」に傍線]した恋歌などに稍さうした傾向のものが見える。此を襲《つ》いだ者は、個人の体験を超えて、而も内的事実である様に、詠む事であつた。其あはれを更に、風物現象に絡めて、えん[#「えん」に傍線]なる仮象を起さうとした。其を著しく実現し、或は過度に効果を示したのが、新古今の人々である。
俊成はさうしたゆくて[#「ゆくて」に傍線]を漠然と見てゐた人であつた。彼は、趣味としては、俊頼に、更に頼政に伝つてゐる表現のかつきりした今様で、印象的なものに傾いた。或は隠士が優越した心持ちで、笑ひ話でもする様な、砕けてゐて、人世観の含められてゐる様なものをも好んだ。だが、此分は、西行に具体化せられて、正風の誹諧の基調になつたのだが、俊成にはさう言ふ方面へ進むには、歌風に対する博い知識と、其愛著とが、あり余つて居た。彼は心弱い人であつた。いつまで引きづられて行つて、あゝした地位に達したものかと思ふ。だから、刺戟はすべて受けこんだ。年とつて後も、若い新古今歌人の影響を、逆に取り入れてゐる。
一体新古今時代の人々は、党派関係以外に、創作鑑賞の上からは、各歌風を認め羨むだけの自由さがあつた。此が、後にも先にもなくなる事実である。院の包容態度から来ても居よう。併し其は、歌の学問化から来たのだ。各派に亘り、諸態に隈ない理会と、製作力がなくてはならぬものとせられた。此久しい傾向が俊成になつて一層おし拡げられた。
文学上にも他力宗のあなた任せ[#「あなた任せ」に傍線]を守つた俊成は、大きな意志を予想した。唯、心|寂《シヅ》かな精進によつて、待つべき神興を考へて居たらしい。彼は、感謝の念を持ち易かつた。彼は、すぐれて印象的な叙景詩にも進んだ。此頃から、歌の大家とある者は、どこか習ひ手と違つた姿を作つて居ねばならぬと言ふ考へを持つた様だ。人々には、叙景の歌なども作らせてゐたが、自分では、今一つ上の位と思はれる処を、行かねばならなかつた。玉葉・風雅の優れた歌風を作つた為兼もが、自身は思ひ入つた形を見せようとして、不思議な作物などを残した。あゝした師範家の意識は、俊成にも動いて居たのである。前に掲げた藤原忠良の歌や、若い頃の良経、或は式子内親王、殊に著しく宮内卿に出た歌風、さうして新古今の基調になつた感覚的な描写態度と、緊張した語感との調和は、恐らく彼の唱導の最適合した時代の好みでもあつたのだらう。彼はねつとり[#「ねつとり」に傍線]調と、たけ[#「たけ」に傍線]高調とを融合させ、艶なる境地に達しようと目ざした。
唯えんに[#「えんに」に傍線]と言ふ語の用語例の多方面であつたことが、概念を煩してゐた。「艶」の字を宛てる程、美しい方面へ傾いて来てゐた。「言はゞ不得《エニ》」――言はうとすれば言へないで――の句の固定した形えに[#「えに」に傍線]の変形だと言ふことは忘られて来た。唯の「妙不可説」の意にもとり「不可説の美」にも通じ、解説・飜訳以上のものと言ふ義にもとれた。かうした術語の不精確から、伝統は幾つにも岐れるのが常だ。動揺してゐる日常語によつて、学術上の概念を定めたので、歌の様態の上の幾種かの型は、所謂三歌式以来、各家|皆《みな》術語を異にして居る。其が平安末に、流派々々が明らかに立つと共に統一せられて来たかと思ふと、又、部分的の変改が加つて来る、と言つたあり様だ。我先に異色を立てようとするのである。而も、術語の概念の範囲についての争ひなどのなかつたのは、不思議である。唯、幽玄態と言ふ語は、人気があつた。俊成が強調し、新古今歌風の目標になつてゐた。其為、後々歌道師範家・連歌師などが、愈々、語に神秘性を帯びさせて来た。
新古今と、其前後とは各《おのおの》違つてゐる。此時代より後になると、禅宗が渡来して、隠者階級や歌学者に、其方の考へ方を利用する者が出て来た。だから、俊成前後では、思索法からして違つて来てゐる。俊成のは、前にも述べた通り、えん[#「えん」に傍線]な歌、其辞句以外に風姿から生れて来る気分のひそかで微かで、纏綿する様に感ぜられるもの、かう言つた静的のものであるが、新古今になるとえん[#「えん」に傍線]の外に、たけ[#「たけ」に傍線]の高さを加へて来てゐる。
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うちしめり あやめぞかをる。時鳥なくや 五月の雨の夕ぐれ(良経――新古今巻三)
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良経の此歌は千載・新古今の幽玄と艶との岐れ目を示すものであらう。調子の纏綿して居る処は、俊成風である。「あやめぞかをる」と「時鳥」との関係は、知識的には断れて見えるが、情調的には続いてゐる。境地は印象しにくい。「時鳥なくや五月」は、古今集から出た本歌だけに「時鳥なくや」が枕詞にとれる。時鳥は鳴いたのか。唯五月の雨の夕ぐれに、あやめがかをつて来ると言ふのか。どちらにも結著のつかない気分に残される。此が次義のえん[#「えん」に傍線]で、其どれと言ふ刺戟もなくて、全体から来る幽雅な美を、仮感の方からも感じたのだらう。枕詞と採つた方が歌としてはよいが、困ることは、此頃の枕詞が、又さうした概念で考へられてゐたのだ。此歌は、新古今式には幽玄でないが、此を印象的に、聯想の余地を作つてたけ[#「たけ」に傍線]を出して来たら、やはり幽玄に入るのだつた。
枕詞・歌枕といふ語も、常に動いて居たので、第一義は既に述べたが、而も疑ふべきは新撰髄脳で、果して公任作かどうかと思はれる程だ。枕は歌の上の常用語で、必一つは置かねばならぬ意義のものと考へてゐる。其語を据ゑる事によつて起される所の幻影を、歌全体が被る。だから、上の句にまづ置場処をきめて、実相を描写した下の句に、其気分を匂はしかける。基調主題、即、頭の位置を定める枕に似た義の考へ出された事が見える。其中から、古くて、単語と言ふより、句の形をとつて居るものと、枕詞序歌をも込めて枕詞と言ふ様になつたらしい。
わりに古い歌枕は、初めは、古書に出た地名・行事の称呼・日常語の雅訳したものなどを言うて居た様である。即、名所・人事・季題の定まる基で、同時に、異名を問題にさせ初めたのである。古語及び意の訣らぬものを、現代の物に推し当てた死語、漢・仏籍の語を直訳したものなどが、段々出る導きをした。さうして、俊頼が民間伝承を入れる因にもなつたのだ。歌の上の文学用語であると共に、歌枕は、本来の用として、歌の風韻を作るものであつた。此が連歌に入り、誹諧に入つて「座」となる。其放散する風韻が、一聯の気分を統一する様になつた。其が誹諧の盛んになるに連れて、季を専らとする風に傾いて行つたのだ。
和歌及び歌学は、一つで、学問と考へられた。創作の才は、学識によつて定まるものと見た。歌枕其他、故事・格式を知らねば作れぬものと考へたからである。俊成以前から遠く兆して居たのだ。頑なに信じ、愚かに伝来を重んずる武家時代では、和歌を作る事は学者となる事であつた。だから、連歌が文学となり、和歌は学問と考へられた。連歌を作る為にも、学問として、短歌及び其系統の物語を修めねばならぬと信ぜられた。さうして、誹諧は連歌に対して、段々に、其昔、連歌が和歌の余興であつた様な位置に直つた。
新古今同人が俊成の発見を具体化したのが、其前の恋歌である。彼等は描かうとするかはりに、文章の渦まきに捲き込まうとした。倭魂をつきつめて得ようとした。即いろ好み[#「いろ好み」に傍線]の生活を歌に表すのである。恋歌を作るのに、様々な複雑な状態の心理をも考へねばならぬ様に恋の題は殖えてゐた。一方古く歌の主題の向ふ至極地は、恋愛にゆかねばならぬ様になつて来てゐた。其故、恋はすべての歌の枕である様に考へられ、恋歌気分を総ての歌に、被せようとして来た。其が最著しく本質的に恋歌気分を纏綿させる様になつたのは、此集である。恋歌を主題として、幽玄に徹しよう試みに進んだのである。
隠者階級の種蒔き鴨長明には、先輩があつた。俊頼の子の俊慧法師である。家学の伝統に執する必要もなく、神仏にも著《ヂヤク》せず、当代の歌人に対しても、自由につき会つて居たやうだ。俊頼のたゞごと[#「たゞごと」に傍線]主義は、歌に従来の歌枕以外の語を入れ、優美と考へられて居ない事象をも優美にすることで、其結果は却つて、奇歌を作つた。俊慧は此考への概念を改めて、技巧に関心せず、平々と一気に歌ひあげて、たけ[#「たけ」に傍線]ある歌を作らうとしたらしい。だから感激と気魄とに任せてゐたのである。かうした風格は、隠者文学の先型となつたのであらう。隠者は、古来社会の制度外である。此に入ると、階級的制約を離れるから、上流の人と接するにも、従来の作法によらないでよい事になり、自由に出入りが出来たのだ。つまり僧侶と同じ待遇を受けるのであつた。だから後ほど、名だけ法師で半俗生活を営んで居るものが殖えて来た。
同じ感興派でも、俊慧の、伝統の固定した鈍さを持つたのとは別に、西行は感傷性に富んで居た。西行は、此まで、平安朝歌人の心づかない発想法を発見した。歌枕や、歌の制約に囚はれないで、歌ふことであつた。実感を包んで出す衣が、三十一字であつたのを、実感そのまゝ皮膚となり、肉となる事を知つた。彼も、常に都に上つて居たら、其歌の半分が既にさうなつてゐる様に、先づ屏風絵に描き替へ、物語絵に写し改めた様なものばかり残したであらう。彼の雲水生活が此を救ひ、様々の風物・人事に触れさせ、感傷性を鍛へて悲劇的精神を作つた。だから彼の作物のよい物は、蔭に感傷性を蔵して居る。其気分に融しこんだ自然であり、人事であつた。
西行も、人事を詠む時は、自然を受け入れる様にはゆかないで、歌の匂ひを思ひ、たけ[#「たけ」に傍線]を整へ、恋歌じたての作物をとつた。芭蕉が、彼の作物から悟つた「しをり」や「さび」は、悲劇的精神から出たのであつた。わびしい・かすかな・ひそかな心境の現れた作物について言ふ語である。しらべ[#「しらべ」に傍線]を境にして内的に観察してさび[#「さび」に傍線]と言ひ、形式的に感受する静かな曲折の連続を、しをり[#「しをり」に傍線]と言ふのだ。
かうした先輩や、教導者の後に出られたのが、後鳥羽院であつた。万葉の昔から、当代に亘り、すべての歌風と、歌学の伝統を網羅しようと努められ、同好者の間に濃い雰囲気を愈密にしてゆかれた。
そこへ、至尊風のしらべ[#「しらべ」に傍線]が時に出て来ては、新古今風の中に、大がらな味ひを加へた。結局「細み」の出て来る事は稀になつた。当時で言へば、近世の大歌人たる経信以来、皆たけ[#「たけ」に傍線]を高める事に努めて居た。「細み」を出す西行風の人があつても、僧侶の歌を見る態度で鑑賞したから、内容のわびしさ[#「わびしさ」に傍線]だけが訣つて、其しらべ[#「しらべ」に傍線]は寺家流の平俗体と感ぜられたであらう。感傷性でなかつた院は、西行のわびしさ[#「わびしさ」に傍線]からすら、えん[#「えん」に傍線]な味ひをのみ吸収せられたらしいのである。
院の好みは、歌合せ・連歌・誹諧以外の芸術・遊戯にも広かつた。白拍子の舞は勿論、唄も嗜まれて、白拍子合せすら行はしめられた。今様は王朝末に外典凝りの公家の間に、朗詠に替るはいから[#「はいから」に傍線]な新様式・新内容の文学として行はれ出したが、此も謡ふ白拍子たちの今様詞曲の固定や、新しく起つた宴曲其他の為に圧せられて、里から再、寺へ戻つた。作歌者も、僧侶階級に止るやうになつた。まだ此頃は、前代のなごりで、文学として行はれたことは、前にも述べた。此文学を通じて、讃歌の味ひも這入つて居る。寺家の講式・説経などの節まはしや、内容も影響して、歌枕の制約などは蹶飛ばして、叙事的の態度も、歌の上には出されて来た。此芸謡調は、院の御製
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