を思はせる寛けさを、或点まで具へて居た。殆ど自らにしてなつたとき見る可き、修養によらぬ歌人の出られる事も、時にあつた。至尊族の生活法が、一番短歌の創作動機を自然に起し得る様になつて居たのかも知れない。僅かの物語や、作物を耳にしても、其が因になり得た。何かの感激に触れると極めて自然に現れて来る寛けさがあつて、同時に託宣歌の様な空しさがなく、満ちて居る。憑しい感を起させる。併しさうした歌風も、外部からの知識によつて濁らずには居ない。平安朝以来歌を好まれ、歌人の保護者となられた天子は、却つて至尊風を遠ざかつて居られる。崇徳院・後鳥羽院・村上天皇などは、其例に当られる。
後鳥羽院が其鋭い感受性から、個々の特殊性を直観せられた古来の歌風にも色々あつた。至尊風の素地に、殿上ぶりの歌を加へ、古今集ぶりを容れた。又曾根好忠の平然と旧技巧を突破した新描写法、無知と無関心とに幸せられた固定解脱、又は、伝襲を逸れた所に生じた新鮮な印象、野性と野心とから来る作物の憑しさ・強さ・鋭さ。尤《もつとも》、深さ・寛けさは欠けてゐるが、明るさは著しい。此作風もとりこまれた。
好忠の無知は寧《むしろ》、無識といふ方に属すべきものであつた。形式及び、言語の制約、聯想上の特別な約束、さうした物の出来かけた時代であつた。而も国文学・国語学としての研究に、学問でなく知識としての臆説が学者及び歌道伝統家の間にのみ伝つて居た。世間は、其を知らないのが普通であつた。御歌会・歌合せの判者・講師としての位置に居る伝統者・学者の説によつて、誤りない用法に指導せられるだけであつた。だから、地下や五位級の召人にして、宮廷の御歌会・歌合せに稀に出る事の出来た衛府や、内外の判官級の官吏の歌の地下ぶり・鄙ぶりは想像出来る。歌としての風格や、発想法の異色・題材の新鮮な点は、堂上歌人の舌を捲かせる。而も、其用語の誤用・禁忌・歌病に触れる事によつて、僅かに嫉妬心を冷笑に換へさせた。寺家の歌の治外法権式の位置を占めたのとは別であつた。作家と学者とは一致せねばならなかつた。
曾丹と言はれたのは、学者・詩人階級から出た曾丹後《ソウタンゴ》が、渾名化して更に略称せられたものに違ひない。曾丹後には、漢詩の教養が多少あつたに違ひない。其から出た観察点に至つて、図案化態度に換へるに、感覚的に、或は即興的に、詠み捲いた。故事や、様式上の考案も、意識的に学者源順などの方法の外に出てゐる。思ふに、曾丹は、あの作物を残したに拘らず、儒者気質の頑冥と、自負と、卑陋とを含んでゐる点、其出身の学曹たる事を暗示してゐるのである。源順などゝ識つたのも、さうした関係からであらう。
五 儒者の国文学に与へた痕
曾丹は、女房歌の抒情主義に対して、叙景態度を立てた人であらう。或は寧、情趣本位の主客融合境地をおし出して来たものであらう。古今「よみ人知らず」の風である。梨壺の歌人は、学者と伝統者とであつた。学者は、漢学見地から、短歌に学術的の基礎を与へようとする為に置かれたのだ。曾丹の出た時分は、詩文における故事・類句を見習うて、歌の上にもさうした物によつて、歌の品位と学問的位置が、確かにせられようとしかゝつた時であつた。まくらごと[#「まくらごと」に傍線]が歌としても生じなければならなかつた。和歌所の人々は、万葉・古今其他から其を採り出さうとした。
曾丹は、稍方面を異にした。気候方位の月位の月令式主題を採つて、之に恋歌を対立させた。其所属として口ずさみ歌――手習歌にも――にとの考へだらう。雑の部にでも入れるべきものを列ねてゐる。二個所、四季・恋の次に、五十首づゝある。方位に属する物名の歌は、其中十首で、呪文などの形に模した物らしい。此は、四季・恋に対する雑《ザフ》とも言ふべきものである。雑歌が歴史的の意義を持つてゐる事は明らかであつて、謂はゞ、歌物語を簡明に、集成したものであつた。
曾丹集に此条には二個所とも、安積山・浪花津の事を記してゐるのは、多分好忠の新作で、古風を模したものであらう。同時に、口ずさみ[#「口ずさみ」に傍線]歌を手習ひに用ゐた事も知れ、其が歴史教育の積りの物語歌であつた事も訣るのである。さうして歌の功徳を呑みこませたものである。其上此歌は「あさか山」の歌と「浪花津」の歌との一音づゝを句の首尾に据ゑた言語遊戯になつてゐる。
手習帳を双紙と言ふことも、用語の上からの名で、冊子と謂はれた体裁の本が、多く手習ひに用ゐられた為、手習ひに使ふ物は、皆冊子といふ事になつたのだ。折り本の法帖風の物が、習ふ者・教へる者両方に用ゐられたのであつた。口遊《クイウ》・枕冊子はじめ、倭名鈔・字鏡・名義抄の類から経文類まで書写せられる様になつたのである。さうして、事実と文字と、語彙と、社会知識とを習得させるのだ。
其が少年から成人にも引き続く。平安中期以来の教育法である。かうした物の外に「連ね歌」がある。述懐を表す形式の様である。尻とり文句である。此は元、問答体から出たので、小唄にも讃歌にもあつたのである。上句・下句を連ねるものばかりとは言へない、連歌の一体なのである。又四季の歌の初め処々に、長歌があり、又はしがきや、集の序などがある。一つは律文、一つは散文と見えるけれども、根本的には同じ物である。
源順集の序にも、さうした傾向が見える。古今序などゝは、大分、音律関係が変つて来て、後の白拍子・隠士の文の発生を思はせるものだ。これ等(或は、後の――男性の――編纂者の書き入れかも知れぬ)新しい景物や、地名や、小唄・神歌や、四季の人事などを媒にして、歌心を助け出さうとしてゐる事は明らかだ。形式や、表現或は部類から見ても、四季・恋・雑の外に物名・誹諧などの言語遊戯も見せてゐる。つまり一種異様な自選家集で、枕冊子の一種らしい企てを示してゐる。発想法の上から言ふと、わりあひ苦心なく、十二个月歌だの、百首歌などを詠んだらしい。だから、単語の用語例に無理はあつても、短歌のしらべ[#「しらべ」に傍線]には関せぬものが多い。恐らく古今集のよりは、古今六帖に近く、又其をもまるきり敷き写す事をせず、ことわざ[#「ことわざ」に傍線]・民謡の短歌の形で残つた物のやり口をも、とり込んで居たのであらう。大体に亘つて、曾丹風は、先輩歌人を通じても、又上皇自身直接にもとり入れてゐる。
源経信は実は、後鳥羽院の言を俟つまでもなく、平安末期百五十年の初めから中頃へかけて出て、歌の転換の方向を示した人である。今残つた歌は尠いが、其で推しても、芸術家らしい素質は十分に見える。曾丹と俊頼との、年代からも作物からも、ちようど中間に位する人である。曾丹のしらべ[#「しらべ」に傍線]が寧、古今調だつたのに比べると、彼は著しく変つて来てゐる。王朝末の歌人は、古今に亘り、敵|御方《みかた》の歌風を咀嚼して居た。其風の早く著しく見えたのは此人で、巧みに古態と今様とを使ひわけてゐる。
此以後、王朝末の歌人は、多く前代調と新調とを詠み分ける様になつた。さうして両派に対する同情もあつた。俊成は固より新古今の歌人は、女房を除いて殆どすべてさうであつた。此は、歌合せに新様、御歌会には旧調、勅撰集入選の為には、両様に通じて置く必要があつた為であらうが、歌合せにおける歌論の素養として、さうした理会力と記憶と、其運用の自在を尊んだのであらう。
経信は、此気運の先導者であつた。歌合せの中心として重んぜられ、次第に勅撰集批判などもする様になつた。かうして一世の歌の知識と云はれた。此人前後から、歌合せの博士の様な形が出来て来て、次第に歌派の対立が生ずる様になつた。旧風は公卿風のものであり、新様は趣向歌である。此が調和しては、経信の清醇・寂寥な境涯が開けた。此歌風に於ける両態と歌学とが俊頼に伝り、彼は新風の方へ専ら進んだ。
六 前代文学の融合と新古今集と
俊頼は、親経信程の天賦はなかつた。が、野心があつた。歌枕の存在を明らかにした。枕ごとは多くあつても、まだ組織せられて居なかつた。其を民間伝承、即、異郷趣味を唆る様な、特殊な地方風俗・名産・方言或は――既に固定した文学用語・枕ごと以外に、古典的な清純な感情を起す体言・用言・助辞なども、現代通用の粗雑な整頓せられない都鄙の口語文法などから、識別採用する風雅意識は十分にあつた。現代語・庶物説明説話の童話に近い親しみを持つたもの――かうした精神伝承に関してゐるものも、目標にして居た様である。だから大体やはり、民間の物ながら、古典の味あるものをとつた訣だ。
此は、好忠も或点まで、組織なしにではあるが、用ゐてゐた。俊頼はかうして、歌の世界に刺戟を与へたが、自分の作物は、破壊意識の為やら、用語や題材から来る過度の音調の緊張やらから、態度の露出した不熟な物が多かつた。其新題材、或は新用語を、芸術化する整頓・融合のしらべがなかつた。感じ方・とり方・表し方などが、一向旧来の型を出て居なかつた。其為、俊頼の事業のすべて歴史化した今でも、しつくりと来ない。やはり騒しい歌が多い。散木奇歌集の奇歌の義が叶ひ過ぎて居るのは傷ましい。
此外にも、基俊の古風がある。万葉集に拠ると称して、俊頼に対抗したが、俊頼の歌風――寧《むしろ》情調――が万葉風に感じられるのに、此は万葉の中の題目や名辞、稀には本歌をとり出したに過ぎない。歌枕の採集地として、万葉を扱うたまでゞあつた。尚、一流、藤原顕輔があつて、俊頼とはり合うた。
此時代から、武家の勢力と、習慣とが、次第に沁み込んで、系図と家職との関係が浅くなつた。一方又、儒学の伝統式を移してもよいだけの学問的組織と公認とを持つて来てゐたのだ。大江・菅原又は藤原の庶流から出た儒学者の中にも、歌の方へ方向を転じる者も出来て来た。顕輔系統と俊頼系統との外に、尚幾流も、さうした半成立の歌学伝統が出来かけて、一二代で、伝統を失ふ者もあつた。大体に、顕輔統には、歌学・歌論が多く、俊頼統には、尠かつた。
俊成は、顕輔伝統に養はれて居た間に、其に通じて了うたのであらう。基俊の学殖と、古態の歌と、俊頼の今様の詠み口を併せて、更に其他の諸家の主張や、伝承を吸ひ込んだ。其上、古今・伊勢・日記・家集などを研究した。大成家であり、伝統の綜合者でもあつた。其作物を見ても、ある物は寧、平水付した様に見え、諸派の味ひを兼ねて居る様であり、ある物は、個々の流義に傾いてゐる様に見える。古態・新態・変態・漢様・寺家様・至上風・女房風・殿上風・地下風と変化自在に見える。
だが、この人の素質にぴつたりしてゐるらしい歌風は、女房風のものらしい。俊成の若盛りから女房風は、纏綿連環のしらべ[#「しらべ」に傍線]を著しく見せて来た。小股すくひ[#「小股すくひ」に傍線]や、人ぢらし[#「人ぢらし」に傍線]ははやらず、心くらべ[#「心くらべ」に傍線]の形になつて来た。物語歌と地の文との関係に創作動機の別殊な動きを感じて、此をとり入れようとしたのは女房風に対する理会があつたからである。女房風は、わが真心の程度まで、相手が心があるかと疑ふ態度で、不満足を予期した様な、悲観気分が満ちて居る。あらかじめ、失恋してかゝつて居るのだ。失恋歌が、女房歌の中心になつて来た。しらべは纏綿、歌口はねつとりであつた。さうして其よりも、もつと離れた位置から、情趣の世界と、気分とを描かうとする態度を感じたのであつた。自分は第三者として即かず離れずに居て、純主観態度から出ぬ味ひのある事を知つたのである。前代以来感傷誇張の小説化の傾向を持つて来た女房歌流の抒情詩は、俊成の努力で著しく変つて行つた。
千載集以後の恋歌の特徴は、中性表現のものである。恋のあはれ[#「恋のあはれ」に傍線]を描きさへすればよいので、自分の実感吐露や、心理解剖は、二の次になつた。贈答用の機智や恋の難題を詠み了せる事の外に、今一つ美しい幻影の存在をば知つたのだ。恋する人の心が、叙事的興味から起る情趣に包まれて、真実よりも優れた美として触れる事を目がけたのだ。しらべ[#「しらべ」に傍線]の裏にはあはれな人生が纏綿して来た。源氏物語風の柔いだ悲
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