《い》えぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、漣《さざなみ》とを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。
禅林寺のは、製作動機から見れば、稍《やや》後出を思わせる発展がある。併し画風から見て、金戒光明寺のよりも、幾分古いものと、凡《およそ》判断せられて居る。さすれば両者とも、各今少し先出の画像があり、其型の上に出て来たものなることが想像出来る。此方は、金戒光明寺の図様が固定する一方、その以前に既に変化を生じて居たものの分出と見ることが出来る。但中尊の相好は、金戒光明寺のよりも、粗朴であり、而も線の柔軟はあるが、脇士《わきじ》・梵天《ぼんてん》・帝釈《たいしゃく》・四天王等の配置が浄土|曼陀羅《まんだら》風といえば謂えるが、後代風の感じを湛《たた》えている。其を除けると、中尊の態様、殊に山の端に出た、胸臆のずっしりした重さは如何にも感覚を通して受けた、弥陀《みだ》らしさが十分に出ていて、金戒光明寺の作りつけた様なのとは違う。其に山の姿もよい。若し脇士を仮りに消して想像すれば、更に美しい山容である。此山、此山肌の感触はどうも、写実精神の出た山である。
これで見ると、山の端に伸《の》しあがった日輪の思われる阿弥陀の姿である。古語で雲居というのは、地平線水平線のことだが、山の端などでも、夕日の沈む時、必見ることである。一度落ちかけた日が、ぬっと伸しあがって来る感じのするものだが――、この絵の阿弥陀仏には、実によく、其気味あいが出ている。容貌の点から言うと、金戒光明寺の方が遥かに美男らしいが、直線感の多い描線に囲まれただけに、ほんとうのふくらみが感じられぬ。こちらは、阿弥陀というよりは、地蔵|菩薩《ぼさつ》と謂えば、その美しさは認められるだろう。腹のあたりまでしか出ていぬが、すっく[#「すっく」に傍点]と立った全身の、想見出来るような姿である。ところが其優れた山の描写が亦、最異色に富んで居る。峰の二上山形に岐《わか》れている事も、此図に一等著しい。金戒光明寺の来迎図《らいごうず》は、唯の山の端を描いたばかりだし、其から後のものは、峰の分れて見えるのは、凡《すべて》そこから道が通じて、聖衆が降って来るように描かれている。雲に乗って居ながら、何も谷間の様な処を通って来るにも及ばぬ訣《わけ》である。禅林寺の方で見ると、二脇士は山の曲《たわ》に関係なく、山肌の上を降って来る様に見える。上野家や川崎家のでは、今も言った来迎の山を「二上」型に描く習慣が脱却出来ず、而も何の為に、其ほどに約束を守らねばならぬか訣《わか》らずなった為に、聖衆降臨の途次といった別の目的を、見つけることになったと見る外はない。
上野家蔵のも相好の美しさ、中尊の姿態の写実において優れているのや、川崎家旧蔵の山越図の古朴な感じが充ち、中尊仏の殊に上体と山との関聯《かんれん》に、日想観を思わせるものが、十分に出て居るが、二つ乍《なが》ら聖衆と中尊との関聯の上に、稍不自然な処がある。即、阿弥陀は山の端に留り、聖衆ばかり動いていると謂った画様の川崎家の物や、何やら、中尊の背後にした聖衆の動静に来迎図離れの感じられる上野氏の物、特に後者は、阿弥陀の立像を膝元近くで画いたところに、山越し像の新様式の派出を示している。なぜなら、そうなると西に沈む日の姿が、よほど態様を変えて来ることになるからだ。而も、此図に見られる一つの異点は、阿弥陀浄土変相図に近づいて居ることである。こうなって来ると、私などにも「山越し」像の画因は、やっとつかむことが出来るのではないかと思う。
大串純夫さんに、来迎芸術論(国華)と言う極めて甘美な暗示に富んだ論文があって、この稿の中途に、当麻寺の松村実照師に示されて、はじめて知ったのだが、反省の機会が与えられて、感謝している。此には、山越し像と、来迎図との関聯、来迎図と御迎講又は来迎講と称すべきものとの脈絡を説いて、中世の貴族庶民に渉《わた》る宗教情熱の豊けさが書かれている。唯一点、私が之に加えるなら、大串さんのひきおろした画因――宗教演劇にも近い迎え講の儀式の、芸術化と言う所から、更にずっと、卸して考えることである。
山越し像において、新しいほど、御迎講の姿が、画因に認められるのに、古いほど却《かえっ》て来迎図の要素たる聖衆が少くなって、唯の三尊仏と言うより、其すら脇士なるが故に伴うているだけで、眼目は中尊にあると言う傾向がはっきり見えるのは、其が唯阿弥陀三尊に止るなら、問題はない。阿弥陀像には、自ら約束として、両脇士の随《したが》うものなのだから。ところが、之に附随して山の端の外輪が胸のあたりまで掩《おお》うていることになると、そう簡単には片づかぬ。常に来迎が山上から、たなびく紫雲に乗って行われ易いと考えたにしても、画面は必しも、其ばかりではない。
慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院《こんぶいん》の来迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必須条件でないといえる。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山から家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。
結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの浄土変相図としての条件を、持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるのである。
山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
観経曼陀羅の中にも、内外陣左辺右辺のとり扱いについて、種々の相違はあるようだが、定善義十三観の中、最重く見られているのが、日想観である。海岸の樹下に合掌する韋提希夫人《いだいけぶにん》あり、婢女一人之に侍立し、樹上に三色の雲かかり、正中上方一線の霞の下に円日あり、下に海中島ある構図である。当麻の物では、外陣左辺十三段のはじめにある。即、西方に沈もうとする日を、観じている所なのだ。浄土を観念するには、この日想観が、緊密妥当な方法であると考えたのが、中世念仏の徒の信仰であった。観無量寿経に、「汝及び衆生|応《まさ》に心を専らにし、念を一処に繋けて、西方を想ふべし。云はく、何が想をなすや。凡想をなすとは、一切の衆生、生盲に非るよりは、目有る徒、皆日没を見よ。当に想念を起し、正坐し西に向ひて、日を諦《あき》らかに観じ、心を堅く住せしめ、想を専らにして移らざれ。日の歿《ぼつ》せむとするや、形、鼓を懸けたる如きを見るべし。既に見|已《を》へば目を閉開するも、皆明了ならしめよ。是を日想となし、名づけて、初観といふ。」そうして水想観・宝地観・宝樹観・宝池観・宝楼観と言う風に続くのである。ところが、此初観に先行している画面に、序分義化前縁の段がある。王舎城耆闍崛山に、仏|大比丘《おおびく》衆一千二百五十人及び許多《あまた》の聖衆と共に住んだ様を図したものである。右辺左辺と、位置を別にしているが、順序として、定善義第一日想観に続く様に解せられる所から、何かの関聯が、考えられて居たのでないかと思う。強いて、曼陀羅の中から、山越し像の画因を引き出そうとすれば、これがまず、或暗示を含んでいるとは言えよう。雲湧き立つ山下に、仏を囲んで、聖衆・大比丘のある所である。山の此方にあるのが違うのだが、此違いは大きな違いである。日想観及び次の水想観には、ただ韋提希夫人観念の姿を描いたのみであるが、其より先は、如来・菩薩の示現を描いている。日想観において観じ得た如来の姿を描くとすれば、西方海中に没しようとする懸鼓の如き日輪を、心《しん》にして写し出す外はない。さすれば、水平線に半身を顕《あらわ》し、日輪を光背とした三尊を描いたであろう。だが、此は単に私どもの空想であって、いまだ之を画因にした像を見ぬのである。併しながら、今も尚、彼岸中日海中にくるめき沈む日を拝する人々は、――即庶人の日想観を行ずる者――落日の車輪の如く廻転し、三尊示現する如く、日輪三体に分れて見えると言って、拝みに出るのである。
此日、来迎仏と観ずる日輪の在る所に行き向えば、必その迎えを得て、西方浄土に往生することになる、と考えたのは当然過ぎる信仰である。此は実践する所の習俗として残っていて、而も、伝説化・芸術化することなくして、そのまま消えて行ったのである。その消滅の径路において、彼岸の落日を拝む風と、落日を追うて海中に没入することと、また少くとも彼岸でなくとも、法悦は遂げられるという入水死《じゅすいし》の風習とに岐《わか》れて行ったのである。
ここで山越し像に到る間を、少し脇路に蹈《ふ》み入ることにしたい。
さて、此日東の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。
宮廷におかせられては、御代《みよ》御代の尊い御方に、近侍した舎人《とねり》たちが、その御宇《ぎょう》御宇の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播《でんぱ》した。此が、日奉部《ひまつりべ》(又、日祀部《ひまつりべ》)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此|部曲《かきべ》の事については、既に前年、柳田先生が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ[#「ひおきべ」に傍線](又、ひき[#「ひき」に傍線]・へき[#「へき」に傍線])と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである。おく[#「おく」に傍点]は後代|算盤《そろばん》の上で、ある数にあたる珠《たま》を定置することになっているが、大体同じ様な意義に、古くから用いている。源為憲の「口遊《くゆう》」に、「術に曰《い》はく、婦人の年数を置き、十二神を加へて実と為し…」だの、「九々八十一を置き、十二神を加へて九十三を得……」などとある。此は算盤を以てする卜法《ぼくほう》である。置く[#「置く」に傍線]が日を計ることに関聯《かんれん》していることは、略《ほぼ》疑いはないようである。ただおく[#「おく」に傍点]なる算法が、日置の場合、如何なる方法を以てするか、一切明らかでないが、其は唯実際方法の問題で、語原においては、太陽並びに、天体の運行によって、歳時・風雨・豊凶を卜知することを示しているのは明らかである。
此様に、日を計ってする卜法が、信仰から遊離するまでには、長い過程を経て来ているだろうが、日神に対する特殊な信仰の表現のあったのは疑われぬ。其が、今日の我々にとって、不思議なものであっても、其を否む訣《わけ》には行かぬ。既に述べた「日《ひ》の伴《とも》」のなつかしい女風俗なども、日置法と関聯する所はないだろうが、日祀りの信仰と離れては説かれぬものだということは、凡《およそ》考えていてよかろう。
其に今一つ、既に述べた女の野遊び・山籠《やまごも》りの風である。此は専ら、五月の早処女《さおとめ》となる者たちの予めする物忌みと、われ人ともに考えて来たものである。だが、初めにも述べた様に、一処に留らず遊歴するような形をとることすらあるのを見ると、物忌みだけにするものではなかったのであろう。一方にこうした日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]《ひかげ》を追う風の、早く埋没した俤《おもかげ》を、ほのか乍《なが》ら窺《うかが》わせているというものである。
昔から語義不明のまま、訣《わか》った様な風ですまされて来た「かげのわずらい」と謂《い》った離魂病なども、日※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]を追うてあくがれ歩く女の生活の一面の長い観察をして来た社会で言い出した語ではないか。其でなくては、此病気は、陰
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