山越しの阿弥陀像の画因
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)阿弥陀像《あみだぞう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)阿弥陀|来迎図《らいごうず》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》

 [#…]:返り点
 (例)光芒忽自[#二]眉間[#一]照
−−

[#ここから2字下げ]
極楽の東門に 向ふ難波の西の海 入り日の影も 舞ふとかや
[#ここで字下げ終わり]
渡来文化が、渡来当時の姿をさながら持ち伝えていると思われながら、いつか内容は、我が国生得のものと入りかわっている。そうした例の一つとして、日本人の考えた山越しの阿弥陀像《あみだぞう》の由来と、之が書きたくなった、私一個の事情をここに書きつける。
「山越しの弥陀をめぐる不思議」――大体こう言う表題だったと思う。美術雑誌か何かに出たのだろうと思われる抜き刷りを、人から貰うて読んだのは、何でも、昭和の初めのことだった。大倉粂馬さんという人の書かれたもので、大倉集古館におさまって居る、冷泉為恭筆の阿弥陀|来迎図《らいごうず》についての、思い出し咄《ばなし》だった。不思議と思えば不思議、何でもないと言えば何のこともなさそうな事実|譚《たん》である。だがなるほど、大正のあの地震に遭うて焼けたものと思いこんで居たのが、偶然助かって居たとすれば、関係深い人々にとっては、――これに色んな聯想《れんそう》もつき添うとすれば、奇蹟談の緒口《いとぐち》にもなりそうなことである。喜八郎老人の、何の気なしに買うて置いたものが、為恭のだと知れ、其上、その絵かき――為恭の、画人としての経歴を知って見ると、絵に味いが加って、愈《いよいよ》、何だか因縁らしいものの感じられて来るのも、無理はない。
古代仏画を摸写《もしゃ》したことのある、大和絵《やまとえ》出の人の絵には、どうしても出て来ずには居ぬ、極度な感覚風なものがあるのである。宗教画に限って、何となくひそかに、愉楽しているような領域があるのである。近くは、吉川霊華を見ると、あの人の閲歴に不似合いだと思われるほど濃い人間の官能が、むっとする位つきまとうて居るのに、気のついた人はあろうと思う。為恭にも、同じ理由から出た、おなじ気持ち――音楽なら主題というべきもの――が出ている。私は、此絵の震火をのがれるきっかけを作った籾山半三郎さんほどの熱意がないと見えて、いまだに集古館へ、この絵を見せて貰いに出かけて居ぬ。話は、こうである。ある日、一人の紳士が集古館へ現れた。此画は、ゆっくり拝見したいから、別の処へ出して置いて頂きたいと頼んで帰った。其とおりはかろうて、そのまま地震の日が来て、忘れたままに、時が過ぎた、と此れが発端である。正《しょう》の物を見たら、これはほんとうに驚くのかも知れぬが、写真だけでは、立体感を強いるような線ばかりが印象して、それに、むっちりとした肉《しし》おきばかりを考えて描いているような気がして、むやみに僧房式な近代感を受けて為方《しかた》がなかった。其に、此はよいことともわるいこととも、私などには断言は出来ぬが、仏像を越して表現せられた人間という感じが強過ぎはしなかったか、と今も思うている。
この絵は、弥陀仏の腰から下は、山の端に隠れて、其から前の画面は、すっかり自然描写――というよりも、壺前栽《つぼせんざい》を描いたというような図どりである。一番心の打たれるのは、山の外輪に添うて立ち並ぶ峰の松原である。その松原ごしに、阿弥陀は出現している訣《わけ》であった。十五夜の山の端から、月の上って来るのを待ちつけた気持ちである。下は紅葉があったり、滝をあしらったりして、古くからの山越しの阿弥陀像の約束を、活《いか》そうとした古典絵家の意趣は、併しながら、よく現れている。
此は、為恭の日記によると、紀州|根来《ねごろ》に隠れて居た時の作物であり、又絵の上端に押した置き式紙の処に書いた歌から見ても、阿弥陀の霊験によって今まで遁《のが》れて来た身を、更に救うて頂きたい、という風の熱情を思い見ることが出来る。だから、漫然と描いたものではなかったと謂《い》える。心願を持って、此は描いたものなのだ。其にしては絵様は、如何にも、古典派の大和絵師の行きそうな楽しい道をとっている。勿論、個人としての苦悶《くもん》の痕《あと》などが、そうそう、絵の動機に浮んで見えることは、ある筈がない。絵は絵、思いごとは思いごとと、別々に見るべきものなることは知れている。為恭は、この絵を寺に留めて置いて、出かけた旅で、浪士の刃に、落命したのであった。
今こうして、写真を思い出して見ると、弥陀の腰から下を没している山の端の峰の松原は、如何にも、写実風のかき方がしてあったようだ。そうして、誰でも、こういう山の端を仰いだ記憶は、思い起しそうな気のする図どりであった。大和絵師は、人物よりも、自然、装束の色よりも、前栽の花や枝をかくと、些《すこ》しの不安もないものである。
私にも、二十年も前に根来・粉川あたりの寺の庭から仰いだ風猛《かざらぎ》山一帯の峰の松原が思い出されて、何かせつない[#「せつない」に傍点]気がした。滝や、紅葉のある前景は、此とて、何処にもあるというより、大和絵の常の型に過ぎぬが、山の林泉の姿が、結局調和して、根来寺あたりの閑居の感じに、適して居る気がするのではなかろうか。
さて其後、大倉集古館では、何ということなく、掛けて置いたところが、その地震前日の紳士が、ふらりと姿を顕《あらわ》して実は之を別の処に出して置いて、静かに拝ましてくれというたのは、自分だったと名のるという後日譚になり、其が、籾山さんだったという事になって、又一つ不思議がつき添うて来る、ということになるのだが、此とても、ありそうな事が、狭い紳士たちの世間に現れて来た為に、知遇の縁らしいものを感じさせたに過ぎぬ。が、大倉一族の人々が、此ほど不思議がったというのには、理由らしいものがまだ外にあるのであった。事に絡んで、これはこれはと驚くと同時に、山越しの弥陀の信仰が保って来た記憶――そう言うものが、漠然と、此人々の心に浮んだもの、と思うてもよいだろう。一家の中にも、喜六郎君などは、暫時ながら教えもし、聴きもした仲だから、外の族人よりは、この咄のとおりもよいだろう。
どんな不思議よりも、我々の、山越しの弥陀を持つようになった過去の因縁ほど、不思議なものはまず少い。誰ひとり説き明すことなしに過ぎて来た画因が、為恭の絵を借りて、えとき[#「えとき」に傍点]を促すように現れて来たものではないだろうか。そんな気がする。
私はこういう方へ不思議感を導く。集古館の山越しの阿弥陀像が、一つの不思議を呼び起したというよりも、あの弥陀来迎図を廻って、日本人が持って来た神秘感の源頭が、震火の動揺に刺激せられて、目立って来たという方が、ほんとうらしい。
なぜこの特殊な弥陀像が、我々の国の芸術遺産として残る様になったか、其解き棄てになった不審が、いつまでも、民族の宗教心・審美観などといえば大げさだが、何かのきっかけには、駭然《がいぜん》として目を覚ます、そう謂ったあり様に、おかれてあったのではないか。だから事に触れて、思いがけなく出て来るのである。そう思えば、集古館の不思議どころでなく、以前には、もっと屡《しばしば》、そう言う宗教心を衝激したことがあったようである。手近いところでは、私の別にものした中将姫の物語の出生なども、新しい事は新しいが、一つの適例と言う点では、疑いもなく、新しい一つの例を作った訣《わけ》なのである。
だが其後、おりおりの感じというものがあって、これを書くようになった動機の、私どもの意識の上に出なかった部分が、可なり深く潜んでいそうな事に気がついて来た。それが段々、姿を見せて来て、何かおもしろおかしげにもあり、気味のわるい処もあったりして、私だけにとどまる分解だけでも、試みておきたくなったのである。今、この物語の訂正をして居て、ひょっと、こう言う場合には、それが出来るのかも知れぬという気がした。――其だけの理由で、しかも、こう書いていることが、果してぴったり、自分の心の、深く、重たく折り重った層を、からりからりと跳ねのけて、はっきり単純な姿にして見せるか、どうかもそれは訣《わか》らぬのである。
日本人総体の精神分析の一部に当ることをする様な事になるかも知れぬ。だが決して、私自身の精神を、分析しようなどとは思うても居ぬし、又そんな演繹式《えんえきしき》な結果なら、して見ぬ先から訣っているような気もするのだから、一向して見るだけの気のりもせなんだのである。
私の物語なども、謂《い》わば、一つの山越しの弥陀《みだ》をめぐる小説、といってもよい作物なのである。私にはどうも、気の多い癖に、又一つ事に執する癖がありすぎるようである。だが、そう言うてはうそ[#「うそ」に傍点]になる。何事にも飽き易く、物事を遂げたことのない人間なのだけれど、要するに努力感なしに何時までも、ずるずるべったりに、くっついて離れぬという、ふみきりがわるいと言おうか、未練不覚の人間といおうか、ともかく時には、驚くばかり一つ事に、かかわっている。旅行なども、これでわりにする方の部に入るらしいが、一つ地方にばかり行く癖があって、今までに費した日数と、入費をかければ、凡《およそ》日本の奥在家・島陰の村々までも、あらかたは歩いている筈である。それ[#「それ」に傍点]がそうなって居ぬのは、出たとこ勝負に物をするという思慮の浅さと、前以てものを考えることを、大儀に思うところから来るのは勿論だが、どうも一つ事から、容易に、気分の離れぬと言う性分が、もと[#「もと」に傍点]になっている様である。
さて、今覚えている所では、私の中将姫の事を書き出したのは、「神の嫁」という短篇未完のものがはじめである。此は大正十年時分に、ほんの百行足らずの分量を書いたきり、そのままになっている。が、横佩垣内《よこはきかきつ》の大臣家の姫の失踪《しっそう》事件を書こうとして、尻きれとんぼうになった。その時の構図は、凡《すべて》けろりと忘れたようなあり様だが、藕糸曼陀羅《ぐうしまんだら》には、結びつけようとはしては居なかったのではないかと思う。
その後もどうかすると、之を書きつごうとするのか、出直して見ようと言うのか、ともかくもいろいろな発足点を作って、書きかけたものが、幾つかあった。そうして、今度のえじぷと[#「えじぷと」に傍線]もどきの本が、最後に出て来たのである。別に、書かねばならぬと言うほどの動機があったとも、今では考え浮ばぬが、何でも、少し興が浮びかけて居たというのが、何とも名状の出来ぬ、こぐらかったような夢をある朝見た。そうしてこれが書いて見たかったのだ。書いている中に、夢の中の自分の身が、いつか、中将姫の上になっていたのであった。だから私から言えば、よほど易い路へ逃げこんだような気が、今におきしている。ところが、亡くなった森田武彦君という人の奨《すす》めで、俄《にわ》かに情熱らしいものが出て来て、年の暮れに箱根、年あけて伊豆|大仁《おおひと》などに籠《こも》って書いたのが、大部分であった。はじめは、此書き物の脇役になる滋賀津彦に絡んだ部分が、日本の「死者の書」見たようなところがあるので、これへ、聯想《れんそう》を誘う為に、「穆天子伝《ぼくてんしでん》」の一部を書き出しに添えて出した。そうして表題を少しひねってつけて見た。こうすると、倭《わ》・漢・洋の死者の書の趣きが重って来る様で、自分だけには、気がよかったのである。
そうする事が亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養にもなるという様な気がしていたのである。書いている内の相当な時間、その間に一つも、心に浮ばなんだ事で、出来上って後、段々ありあ
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング