りと思い出されて来た色々の事。まるで、精神分析に関聯した事のようでもあるが、潜在した知識を扱うのだから、其とは別だろう。が元々、覚めていて、こんな白日夢を濫書するのは、ある感情が潜在しているからだ、と言われれば、相当病心理研究の材料になるかもしれぬ。が、私のするのは、其とは、違うつもりである。もっとしかつめらしい顔をして、仔細《しさい》らしい事を言おうとするのである。だから、書かぬ先から、余計な事だと言われそうな気おくれがする。
まず第一に、私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない。もっともっと重大なのは、日本人の持って来た、いろいろな知識の映像の、重って焼きつけられて来た民俗である。其から其間を縫うて、尤《もっとも》らしい儀式・信仰にしあげる為に、民俗民俗にはたらいた内存・外来の高等な学の智慧である。
当麻《たぎま》信仰には、妙に不思議な尼や、何ともわからぬ化身の人が出る。謡の「当麻」にも、又其と一向関係もないらしいもので謂っても、「朝顔の露の宮」、あれなどにも、やはり化尼《けに》が出て来る。曼陀羅縁起以来の繋《つなが》りあいらしい。私の場合も、語部《かたりべ》の姥《うば》が、後に化尼の役になって来ている。
此などは、確かに意識して書いたように覚えている。その発端に何ということなしに、ふっと結びついて来たのだから、やはりそう言うことになるかも知れぬ。が、人によっては、時がたてば私自身にも、私の無意識から出た化尼として、原因をここに求めそうな気がする。それはともかくも、実際そんな風に計画して書いて行くと、歴史小説というものは、合理臭い書き物から、一歩も出ぬものになってしまう。
岡本綺堂の史劇というものは、歴史の筋は追うていても、如何にも、それ自体、微弱感を起させる歴史であった。其代りに、読本作者のした様な、史実或は伝説などの合理化を、行って見せた。その同じ程度の知識は、多くの見物にも予期出来るものであって、そうした人達は、見ると同時に、作者の計画を納得するという風に出来ていた。其が、綺堂の新歌舞伎狂言の行われた理由の一つでもあった。何しろ、作者と、読者・見物と並行しているという事は、大衆を相手にする場合には、余程強みになるらしい。その書き物も、其が歴史小説と見られる側には十分、読本作者や、戯曲における岡本綺堂が顔を出して居る。だが、私共の書いた物は、歴史に若干関係あるように見えようが、謂わば近代小説である。併し、舞台を歴史にとっただけの、近代小説というのでもない。近代観に映じた、ある時期の古代生活とでもいうものであろう。
老語部を登場させたのは、何も之を出した方が、読者の知識を利用することが出来るからと言うのではない。殆無意識に出て来る類型と択ぶ所のない程度で、化尼になる前型らしいものでも感じて貰えればよいと思うたのだ。こんな事をわざわざ書いておくのは、此後に出て来る数|个《か》条の潜在するもののはたらきと、自分自身混乱せぬよう、自分に言い聞かせるような気持ちでする訣である。
称讃浄土仏|摂受経《しょうじゅぎょう》を、姫が読んで居たとしたのは、後に出て来る当麻曼陀羅の説明に役立てようと言う考えなどはちっともなかった。唯、この時代によく読誦《どくしょう》せられ、写経せられた簡易な経文であったと言うのと、一つは有名な遺物があるからである。ところが、此経は、奈良朝だけのことではなかった。平安の京になっても、慧心僧都《えしんそうず》の根本信念は、此経から来ていると思われるのである。ただ、伝説だけの話では、なかったのである。此|聖《ひじり》生れは、大和葛上郡――北葛城郡――当麻村というが、委《くわ》しくは首邑《しゅゆう》当麻を離るること、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕|二上山《ふたかみやま》の姿を仰ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
ここに予《あらかじ》め言うておきたいことがある。表題は如何ともあれ、私は別に、山越しの弥陀《みだ》の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」の俤《おもかげ》が、藤原|南家郎女《なんけいらつめ》の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたと言う空想の拠り所を、聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》に出たものだ、と言おうとするのでもない。そんなものものしい企ては、最初から、しても居ぬ。ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられて来たことが、ちっとでも訣《わか》って貰えれば、と考えていた。
四天王寺西門は、昔から謂《い》われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集《くんじゅ》したこと、凡《およそ》七百年ほどの歴史を経て、今も尚若干の人々は、淡路の島は愚か、海の波すら見えぬ、煤《すす》ふる西の宮に向って、くるめき入る日を見送りに出る。此種の日想観なら、「弱法師《よろぼうし》」の上にも見えていた。舞台を何とも謂えぬ情趣に整えていると共に、梅の花咲き散る頃の優なる季節感が靡《なび》きかかっている。
しかも尚、四天王寺には、古くは、日想観往生と謂われる風習があって、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行ったのであった。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海《ふだらくとかい》と言うた。観音の浄土に往生する意味であって、※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]々《びょうびょう》たる海波を漕《こ》ぎきって到り著《つ》く、と信じていたのがあわれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平|維盛《これもり》が最期も、此渡海の道であったという。
日想観もやはり、其と同じ、必極楽東門に達するものと信じて、謂わば法悦からした入水死《じゅすいし》である。そこまで信仰においつめられたと言うよりも寧《むしろ》、自ら霊《たま》のよるべをつきとめて、そこに立ち到ったのだと言う外はない。そう言うことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思いつめ、何かに誘《おび》かれたようになって、大空の日を追うて歩いた人たちがあったものである。
昔と言うばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋との真中頃に、日祀《ひまつ》りをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎え、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があったことだけは、確かでもあり又事実でもあった。そうして其なごりが、今も消えきらずにいる。日迎え日送りと言うのは、多く彼岸の中日、朝は東へ、夕方は西へ向いて行く。今も播州に行われている風が、その一つである。而も其間に朝昼夕と三度まで、米を供えて日を拝むとある。(柳田先生、歳時習俗|語彙《ごい》)又おなじ語彙に、丹波中郡で社日参りというのは、此日早天に東方に当る宮や、寺又は、地蔵尊などに参って、日の出を迎え、其から順に南を廻って西の方へ行き、日の入りを送って後、還《かえ》って来る。これを日《ひ》の伴《とも》と謂っている。宮津辺では、日天様《にってんさま》の御伴《おとも》と称して、以前は同様の行事があったが、其は、彼岸の中日にすることになっていた。紀伊の那智郡では唯おともと謂う……。こうある。
何の訣《わけ》とも知らず、社日や、彼岸には、女がこう言う行《ぎょう》の様なことをした。又現に、してもいるのである。年の寄った婆さまたちが主となって、稀《まれ》に若い女たちがまじるようになったのは、単に旧習を守る人のみがするだけになったと言うことで、昔は若い女たちが却《かえっ》て、中心だったのだろうと思われる。現にこの風習と、一緒にしてしまって居る地方の多い「山ごもり」「野遊び」の為来《しきた》りは、大抵娘盛り・女盛りの人々が、中心になっているのである。順礼等と言って、幾村里かけて巡拝して歩くことを春の行事とした、北九州の為来りも、やはり嫁入り前の娘のすることであった。鳥居を幾つ綴って来るとか言って、菜の花桃の花のちらちらする野山を廻った、風情ある女の年中行事も、今は消え方になっている。
そんなに遠くは行かぬ様に見えた「山ごもり」「野あそび」にも、一部はやはり、一|个《か》処に集り、物忌みするばかりでなく、我が里遥かに離れて、短い日数の旅をすると謂う意味も含まって居たのである。こう言う「女の旅」の日の、以前はあったのが、今はもう、極めて微かな遺風になってしまったのである。
併し日本の近代の物語の上では、此|仄《ほの》かな記憶がとりあげられて、出来れば明らかにしようと言う心が、よほど大きくひろがって出て来て居る。旅路の女の数々の辛苦の物語が、これである。尋ね求める人に廻りあっても、其とは知らぬあわれな筋立て[#「筋立て」に傍点]を含むことが、此「女の旅」の物語の条件に備ってしもうたようである。
女が、盲目でなければ、尋ねる人の方がそうであったり、両眼すずやかであっても行きちがい、尋ねあてて居ながら心づかずにいたりする。何やら我々には想像も出来ぬ理由があって、日を祀る修道人が、目眩《めくるめ》く光りに馴れて、現《うつ》し世《よ》の明を失ったと言う風の考え方があったものではないか知らん。
私どもの書いた物語にも、彼岸中日の入り日を拝んで居た郎女が、何時か自《おのずか》ら遠旅におびかれ出る形が出て居るのに気づいて、思いがけぬ事の驚きを、此ごろ新にしたところである。
山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけでも、相当の数にはなるだろう。が、悉《ことごと》く所伝通り、凡《すべて》慧心僧都以後の物ばかりと思われて、優れた作もありながら、何となく、気品や、風格において高い所が欠けているように感じられる。唯如何にも、空想に富んだ点は懐しいと言えるものが多い。だが、脇立ちその他の聖衆の配置や、恰好《かっこう》に、宗教画につきものの俗めいた所がないではないのが寂しい。何と言っても、金戒光明寺のは、伝来正しいらしいだけに、他の山越し像を圧する品格がある。其でも尚、小品だけに小品としての不自由らしさがあって、彫刻に見るような堅い線が出て来ている。両手の親指・人さし指に五色の糸らしいものが纏《まと》われている。此は所謂《いわゆる》「善の綱」に当るもので、此図の極めて実用式な目的で、描かれたことが思われる。唯この両手の指から、此画の美しさが、俄《にわ》かに陥落してしまう気がする。其ほど救い難い功利性を示している。此図の上に押した色紙に「弟子天台僧源信。正暦甲午歳冬十二月……」と題して七言律一首が続けられている。其中に「……光芒忽自[#二]眉間[#一]照。音楽新発耳界驚。永別[#二]故山[#一]秋月送。遥望[#二]浄土[#一]夜雲迎」の句がある。故山と言うのは、浄土を斥《さ》しているものと思えるが、尚意の重複するものが示されて、慧心院の故郷、二上山の麓《ふもと》を言うていることにもなりそうだ。
此図の出来た動機が、此詩に示されているのだろうから、我々はもっと、「故山」に執して考えてよいだろう。浄土を言い乍《なが》ら同時に、大和当麻を思うていると見てさし支えはない。此図は唯上の題詞から源信僧都の作と見るのであるが、画風からして、一条天皇代の物とすることは、疑われて来ている。さすれば色紙も、慧心作を後に録したもの、と見る外はないようだ。
一体、山越し阿弥陀像は比叡の横川《よがわ》で、僧都自ら感得したものと伝えられている。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず[#「まず」に傍点]凡そう言う事のありそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせているということは出来る。横川において感得した相好とすれば、三尊仏の背景に当るものは叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべてそう言う意図を持っているのだから。併し若《も》し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなことも謂
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング