た為に、知遇の縁らしいものを感じさせたに過ぎぬ。が、大倉一族の人々が、此ほど不思議がったというのには、理由らしいものがまだ外にあるのであった。事に絡んで、これはこれはと驚くと同時に、山越しの弥陀の信仰が保って来た記憶――そう言うものが、漠然と、此人々の心に浮んだもの、と思うてもよいだろう。一家の中にも、喜六郎君などは、暫時ながら教えもし、聴きもした仲だから、外の族人よりは、この咄のとおりもよいだろう。
どんな不思議よりも、我々の、山越しの弥陀を持つようになった過去の因縁ほど、不思議なものはまず少い。誰ひとり説き明すことなしに過ぎて来た画因が、為恭の絵を借りて、えとき[#「えとき」に傍点]を促すように現れて来たものではないだろうか。そんな気がする。
私はこういう方へ不思議感を導く。集古館の山越しの阿弥陀像が、一つの不思議を呼び起したというよりも、あの弥陀来迎図を廻って、日本人が持って来た神秘感の源頭が、震火の動揺に刺激せられて、目立って来たという方が、ほんとうらしい。
なぜこの特殊な弥陀像が、我々の国の芸術遺産として残る様になったか、其解き棄てになった不審が、いつまでも、民族の宗教心・審
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