は、大和葛上郡――北葛城郡――当麻村というが、委《くわ》しくは首邑《しゅゆう》当麻を離るること、東北二里弱の狐井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕|二上山《ふたかみやま》の姿を仰ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
ここに予《あらかじ》め言うておきたいことがある。表題は如何ともあれ、私は別に、山越しの弥陀《みだ》の図の成立史を考えようとするつもりでもなければ、また私の書き物に出て来る「死者」の俤《おもかげ》が、藤原|南家郎女《なんけいらつめ》の目に、阿弥陀仏とも言うべき端厳微妙な姿と現じたと言う空想の拠り所を、聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》に出たものだ、と言おうとするのでもない。そんなものものしい企ては、最初から、しても居ぬ。ただ山越しの弥陀像や、彼岸中日の日想観の風習が、日本固有のものとして、深く仏者の懐に採り入れられて来たことが、ちっとでも訣《わか》って貰えれば、と考えていた。
四天王寺西門は、昔から謂《い》われている、極楽東門に向っているところで、彼岸の夕、西の方海遠く入る日を拝む人の群集《くんじゅ》したこと、凡《およそ》七百年ほどの歴史を経て
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