》が、後に化尼の役になって来ている。
此などは、確かに意識して書いたように覚えている。その発端に何ということなしに、ふっと結びついて来たのだから、やはりそう言うことになるかも知れぬ。が、人によっては、時がたてば私自身にも、私の無意識から出た化尼として、原因をここに求めそうな気がする。それはともかくも、実際そんな風に計画して書いて行くと、歴史小説というものは、合理臭い書き物から、一歩も出ぬものになってしまう。
岡本綺堂の史劇というものは、歴史の筋は追うていても、如何にも、それ自体、微弱感を起させる歴史であった。其代りに、読本作者のした様な、史実或は伝説などの合理化を、行って見せた。その同じ程度の知識は、多くの見物にも予期出来るものであって、そうした人達は、見ると同時に、作者の計画を納得するという風に出来ていた。其が、綺堂の新歌舞伎狂言の行われた理由の一つでもあった。何しろ、作者と、読者・見物と並行しているという事は、大衆を相手にする場合には、余程強みになるらしい。その書き物も、其が歴史小説と見られる側には十分、読本作者や、戯曲における岡本綺堂が顔を出して居る。だが、私共の書いた物は、歴史
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