《コシラブ》など言う村があって、水の手がよいと見えて、谷から可なり高い処に、田地が多く作られて居る。稲は相当に伸びているのに、苗代田はまだ水を張ったまま、豆も作らずにある。豆で思い出すが、此畠を荒すと謂われている郭公が、まだ時季《シュン》は過ぎないのに、初めから鳴いた事がない。此辺の山間に居ないのか知ら。
時鳥は、其も時々だが、宿の前の右に山を負うた杉林の中で極って鳴く。忍び音と言うやつ[#「やつ」に傍点]で、非常に声が小く、節が細かく聞きなされる。鶯ばかり居て、其外は、何の鳥も鳴かぬような山である。其ももう今になると、谷渡りなどは、あまり高音を揚げることが出来なくなっている様だ。山の傾斜《ナゾエ》や、少々坦らになったところなどは、大抵、篶竹が深く茂って居る。そんな中に籠って鳴いて居るのは、何処へ行っても、鶯の癖と見える。山へ来た当座は、毎日篶竹の笋《タケノコ》が膳について来た。其中出なくなった。聞いて見ると、もう長《タ》け過ぎて歯に合わなくなったのだと言う。山では、昔から此地竹の笋を喰べて居たのに不思議はない。其が罐詰になって町場へ出るようになったのは、まだ十年にもならないことである。荒年続きで苦しんだ東北の農村で考え出したと言う新聞記事すら、まだつい[#「つい」に傍点]此頃見た事のような気がする。
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耳近く鳴く鶯は 篶のなか 青き躑躅《ツツジ》の 時に立ち居る
おほらかに 人のことばの思ほえて、山をあるくに いきどほりなし
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地竹に縁があるのもおかしいが、やっぱり今年は、度々これを喰べた。七月の五日、鶴岡の町であった先師三矢重松先生の歌碑の除幕式に出掛けて、其後ずっと出羽の山々を歩いて居た訣だが、あの次の六日の日は、羽黒山頂上の斎院で泊った。友人なる山の宮司が肝をいってくれて、夕饗《ユウゲ》は二の膳に到るまで、一切山の物ばかりであった。其中では、やっぱり月山筍《ガッサンダケ》が一番印象している。おなじ地竹と言っても、羽後の三山に亘って生える笋は、唯の篶竹のよりは肥えている。鶴岡の市場へ行って見たら、此が沢山出て居た。ちょっと見には、茗荷の長いのの様な感じがして居た。そうした舌の記憶を思い起すような事があるのは、誰もある事である。山や野の長い道の中で此追憶の来る時は、やるせないものだ。と言うことは旅をする者だけが知っている。そう言う道を通って、二十町も登ると、高湯とは別な湯元がある。小さな湧き場だが、お釜と言って、三山の湯殿山を思わせる様な恰好で、温泉が岩伝いに落ちて居る。此湯は、里人が神聖がって居たのだけれど、やはり白部の村人が、これを引いて湯宿を開いている。お釜の二町程下に、二階屋のあぶなく立って居るのが其だ。新高湯と言う。高湯から歩いて登るのにちょうど頃合いなので、三度もやって行った。宿の女年よりと知り合いになって、色々な山の菜を出して貰った。漬け物部屋までついて行って、説明を聞いたりしたものである。あいこ[#「あいこ」に傍点]・どほな[#「どほな」に傍点]・みずぶき[#「みずぶき」に傍点]・ごうわらび[#「ごうわらび」に傍点]・ほとき[#「ほとき」に傍点]まだ色々試して見たが、多くは忘れた。其中、ごうわらび[#「ごうわらび」に傍点]と言うのが、異様に歯や舌に触れた。どほな[#「どほな」に傍点]と言うのは私がすきで、信州の山中から時々とり寄せているうとうぶき[#「うとうぶき」に傍点]と同じ物であった。山の菜としては、うとうぶき[#「うとうぶき」に傍点]がやはり、本格的な薫りと、味いとを持って居ると言うものだろう。柳田國男先生にお裾わけしたところが、先生も忽、うとうぶき[#「うとうぶき」に傍点]の愛好者になってお了いになった。
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夕深く 山の自動車は 山鳥の道に遊ぶを 轢き殺さむとす
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旅に出る前、私は斎藤茂吉さんに逢った。出羽の温泉の優れた処を教えて下さいと言ったところ、白布の外は肱折《ヒジオリ》だなあと話された。私は、雄勝・院内を越えて、秋田県の鷹の湯に一夜、引き還して新庄から肱折に這入って一晩を泊りに出かけても見た。やっぱり肱折はよかった。新庄からあんなに奥へ這入って行って、ああ言うがっしり[#「がっしり」に傍点]した湯の町があろうとは思わなかった。どの家も大きな真言の仏壇を据えて、大黒柱をぴかぴかさせて居ようと謂った処である。湯を呑んだ味は、今まで多く歩いた諸国の温泉の中では、一番旨いと思った。一つは、私の味覚に最叶う炭酸泉の量が多いからであろうと思う。が、其ほかにも、かわったものを含んでいるようである。私は此湯場を中心にした色々な湧き場を歩いて見た。ここは標高はわりに低いから、真夏の今頃よりは、もっと涼風立って、
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