山の湯雑記
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)板谷《イタヤ》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]
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山の※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「虫+羸」、166−1]《スガル》の巣より出で入 道の上 立ちどまりつつる ひそかなりけり
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前に来たのは、ことしの五月廿日、板谷《イタヤ》を越えて米沢へ出ると、町は桜の花盛りであった。それほど雪解けの遅れた年である。高湯へ行きたいのだと雇いかけて見ても、どの家でも、自動車を出そうとは言わない。もう半月もせなければ、船阪峠から向うが開きますまいなどと、皆平気でとり合おうともしない。そのうち一軒、警察電話で、白布《シラブ》の宿へ問うて見ようと言う家が出来た。
二三个処、道へ雪のおし出して居る所はあるが、大体は谷へ落してしまったから、大丈夫這入って来られるだろうとの返事があった。それでやっと、すこっぷ[#「すこっぷ」に傍線]を積みこんで、上にがっしり[#「がっしり」に傍点]した男が助手に乗りこんで、山へ入り込んだ事であった。でも無事に、東屋《ヒガシヤ》と言うのに著いた。それからふた月、七月の七日に、またやって来た白布《シラブ》高湯《タカユ》は、もうすっかり夏になって居る。どの家のどの部屋もあらかた人が這入って居て、どんな時でも、縦横に通った廊下の、どこかに人の音がして居た。
居ついて十日にもなると、湯に入る度数もきまって来て、日に四度が、やっと[#「やっと」に傍点]と言うことになった。来た当座は、起きれば湯、飯がすんで湯、読み疲れたと言っては湯。こんな風にして、寝しなに這入る湯まで、日に幾度這入ったか知れない。冷える湯のせい[#「せい」に傍点]で、あまり湯疲れを感じなかったからだろう。
一時が廻ると、西側の縁から日がさしこんで来る。山の日は暑いけれど、ほとり[#「ほとり」に傍点]を伴うて居ないから、じっとして居れば、居られない程ではない。が、三時半にかっきりと、前山の外輪にそれが隠れて、直射は来なくなる。それまではきっと出あるく事にして居た。
古くから聞えて居る最上《モガミ》の高湯と、山は隔てて居るが、岩代の国の信夫《シノブ》の高湯と、それに此白布と、五里ほどの間に、三つの高湯がある。峡間《ハザマ》の湯でなくて、多少見晴しが利く位置にあるからの称えである。
白布の高湯は、少し前がつまって居るが、其でも、両方から出た端山間に、遠い朝日嶽など言う山の見える日が多い。見渡しの纏って居て、懐しい感じのするのは、何と言っても、信夫の高湯だろう。だが、米沢・新庄・鶴岡などの駅々で見た、宣伝びらでは、今年は信夫の湯に力を入れて評判を立てたようだから、定めてあの山の上の数軒しかない古い湯宿が、立てこんだことだろう。作事小屋・物置部屋などに、頼んで泊めて貰った客などもあるであろうと思う。
最上の高湯は、何にしても、人がこみ過ぎる。出羽奥州の人たちは、湯を娯しむと言うより、年中行事として、尠くとも一週間なり、半月なり、温泉場で暮すと言う風を守っている。そうした村々から、女房たちや若い衆が、大きな荷物を背負って、山を越えて来る。最上の湯は、其ばかりか、温泉その物が、利きそうな気をさせる。其ほど峻烈に膚に沁む。東北には酸川《スカワ》・酸《ス》个湯など、舌に酸っぱいことを意味する名の湯が、大分あるが、我々の近代の用語例からすれば、酸いと言うより、渋いに偏った味である。最上高湯は、狭い山の湯村に驚くばかりの人数が入りこんで居る。宿と宿とが、二階の縁から縁へ跨ぎ越えられるほどに建て詰んでいる。其で居て、何だか茫漠とした感じのあるのが、よさ[#「よさ」に傍点]と謂える湯治場である。
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昼貌の花 今日ひと日萎れねば、山の雨気《アマケ》に 汗かきて居り
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最上の湯でのものだったと思うが、歌の方が却て、少し鄙びた感じを出し過ぎて居るようで、よくない。ひょっとすると、蔵王の山を一つ隔てた向う側の青根温泉で出来たものかも知れない。創作動機など言うものは、瞬間に通り過ぎるもので、こんな部分までも、記憶に残らないことがあるものである。
蔵王山の行者が、峰の精進《ショウジ》をすましての第一の下立《オリタ》ちが、此高湯だとすれば、麓の解禁場《トシミバ》が上《カミ》ノ山に当るわけである。其ほど繁昌して居て、亦年久しい湯治場だろうのに、未に新開地らしい所がある。青い芝山の間に、白い砂地があって、そこが材料置場になったりして居る。思いがけない町裏
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