思想を避けようとしながら、完成せぬ表現から、さう言ふ安易な作物が多く出て来た。さうして曲りなりにも思想らしいものゝ出て来たのは、鉄幹・晶子両氏が、古典研究を本気になつて始めてからの事である。最初から新詩社に対抗してゐた正岡子規すらも、ぎりしや[#「ぎりしや」に傍点]・ろうま[#「ろうま」に傍点]の神話文学の影響を詩に取り入れようとした。唯それを日本的に表現しようとしたが、単なる直訳らしく見えるものを避けようとしてゐる。而も短歌にすら其があつた。名高い「佐保神の別れ悲しも。来む春に ふたゝび逢はむ我ならなくに」、日本神話の立田媛・佐保媛、その春の女神なる佐保媛を指すものとして古典的に感ぜられて来てゐるが、それはさういふ風に、子規の全作物を整頓しての考へで、彼の詩を照し合せて見ると、矢張りみゆうず[#「みゆうず」に傍点]や※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]いなす[#「※[#濁点付き平仮名う、1−4−84]いなす」に傍点]をさういふ風に言ひ表しただけであつた。
明治十年・二十年代に安定の出来なかつた新体詩の様式に対する感覚は、三十年に入ると同時に、ほゞ到達点を見る事が出来た。それは空想に
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