、当然現代語の構造によって発想してゆく詩が、有望である筈だが、詩の欲する言語・文体は、必しも今経過しながら在る現代語を以て、最上の表現性能を持ったものと考える訣にはいかない。われわれの詩が、当然未来を対象とせなければならない所に、重点を置いて考えれば、詩に於ては、未来語の開拓発見を疎《おろそか》にしてはならない。古典派である私なども、現在語ばかりを以てする詩の稽古《けいこ》もするが、時としてはそうして出来た作物が、まるで裸虫である様な気のする事がある。おそらく多くの場合、現実の観察や批評に過ぎなくて、それにつづく未来を、その文体から展《ひら》き出そうとしていない点に、詩の喪失があるのであろう。私の話は、詩語としての古語を肯定した。併しこれは、最近までの歴史上の事実の肯定に過ぎない。そしてつづいて、詩に於ける現在語並びにその文体を悲観して来た。併しこれは、未来語発想と言うことを土台として考える時、もっと意義を持って来る。単なる現代語は、現代の生活を構成するに適している、と言う様な合理論に満足出来ぬのである。未来語の出て来る土台として現在語を考えるのである。未来詩語・未来文体はどうして現れ
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