るが、日本では、こう言う風に象徴派と自然派とが対立すると言った形を取って来たのが不思議である。外国に必至的なものであった象徴派・浪漫派の対立は、我が国では見る事が出来なかった。今から考えれば、日本の詩に限り、象徴派が即浪漫派であったと言う、不思議な姿を見せている。つまり我が国では、ろまんちっく[#「ろまんちっく」に傍線]な詩の運動は一足飛びに、理論的に象徴派に這入《はい》った事になる。それと共に、岩野泡鳴氏の様に、象徴派と自然派とを同時に歩んで居た者さえある。併しどちらかと言うと、我が国現在総べての詩人の所属しているほど盛んな象徴主義も、やはり大なり小なり自然主義を含んで来ている。唯、程度の差を以て作品並びに作家の流派を分ける事になっているのではないか。その意味に於て現在口語ばかりによって、現実の社会生活・政治意識を表現している一群が、象徴派に対する自然派運動を行うと言う外貌を持っていると見るべきであろう。此派の詩は、技巧意識を別にしているのだから、自ら文体に特殊な詩情を見せていないが、若《も》し、個々の詩語の効果を没却して省みないと言う点があったら反省してよい。合理的な立場から言えば
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