った度に、早合点で謙遜《けんそん》なわれわれは、理会に煉熟《れんじゅく》していない自分を恥じて来たものだ。併し其は、私たちの罪でもなく、又多くの場合、訳述者の咎《とが》でもないことが、段々わかって来た。それは国語と国語とが違い、又国語と国語とにしみこんでいる表現の習慣の違いから来ている。日本の国語に翻《うつ》し後《あと》づけて行った詩のことばことばが、らんぼお[#「らんぼお」に傍線]やぼおどれいる[#「ぼおどれいる」に傍線]や、そう言った人の育って来、又人々の特殊化して行ったそれぞれの国語の陰影を吸収して行かないのである。
われわれの友人の多くは、外国の象徴詩を国語に翻訳したその瞬間、自分たちの予期せなかった訳文の、目の前に展《ひろが》っているのを見て、驚いたことであろう。その人が原作に忠実な詩人であればある程、訳詩がちっとも、もとの姿をうつしていないことに悲観したことが察せられる。それほど日本語は、象徴詩人の欲するような隈々《くまぐま》を持っていないのである。単に象徴性能のある言語や詞章を求めれば、日本古代の豊富な律文集のうちから探り出すことはそう困難なことではない。だが、所謂《いわ
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