げ終わり]
この援用文は、幸福な美しい引例として、短い私の論文の最初にかかげるのである。この幸福な引証すら、不幸な一面を以て触れて来るということは、自余の数千百篇の泰西詩が、われわれにこういう風にしか受け取られていないのだということを示す、最もふさわしい証拠になってくれている。象徴派の詩篇の、国語に訳出せられたものは、実に夥《おびただ》しい数である。だが凡《およそ》、こんな風にわれわれの理会力を逆立て、穿《あなぐ》り考えて見ても結局、到底わからない、と溜息《ためいき》を吐かせるに過ぎない。こう言う経験を正直に告白したい人は、ずいぶん多いのではないかと思うのである。
小林秀雄さんの[#「小林秀雄さんの」は底本では「 小林秀雄さんの」]翻訳技術がこれ程発揮せられていながら、それでいて、原詩の、幻想と現実とが並行し、語の翳と暈との相かさなり靡《なび》きあう趣きが、言下に心深く沁《し》み入って行くと言うわけにはいかない。此は唯この詩の場合に限ったことではなく、凡象徴派の詩である以上は、誰の作品、誰の訳詩を見ても、もっと難解であり、晦渋《かいじゅう》であるのが、普通なのである。そう言うことのあ
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