の壁は、ほの青く光る古語を一杯に散りばめていたのである。近代或は、現在の日本語が単に詩の表現に適せないばかりでなく、象徴的な聯想《れんそう》をよぶ陰翳は無いと感じたのであろう。今日からは古語の「散列層」の様に美しい、併し個々の古語自身は生きて働かない、そう言う泣菫|曼陀羅《まんだら》が織り成されたのであった。多くの詩人や、詩の観察者は、これより前にこそ、沢山の古語詩があったものと想像して来ている様である。ところが事実は、そうあるべく考えた想像に過ぎなかった。明治十年代後期から二十年代に通じて現れた詩が、今日見て、いきなり[#「いきなり」に傍点]詩としての価値の乏しさを感ぜさせるのは何によるのか。直観的にわれわれはまず嫌悪を感じる。それはまだ詩の文体を発見しない時代であり、既に発見して居ても、平俗なばらっど[#「ばらっど」に傍線]――日本的に言えばくどき節――の臭気をさえ深く帯びて居た。言葉の排列が、独立した文体の感覚を起させれば、詩としての基礎と、更に詩としての価値の半分は出来上っているのだと言う反省などは、持つ事の出来ない時代であった。ある人々は、七五調四行の今様を準拠としようとし、
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