ぜられ、古語の持っているえきぞちっく[#「えきぞちっく」に傍線]な味すら受け容れられない場合のあるのが、最非難されるのである。
現在の詩壇の有様を見ると、ある部分まで、作家たちの詩は、日本語を忌避している様に見える。考えのある人は、自分の用いる言葉が、日本語的な印象を与え過ぎる事を嫌っている様にも見える。日本語が平俗だと考えている以上に、外国語の持っている様な陰翳《いんえい》を自在に浮べる事の出来ないのを悪《にく》んでいるのであろう。だから何のための詩語か。結局凡庸な表現力しか持たない日本語ではないか。而も現在と関係のない、どう祷《いの》っても転生する望みのない山の石の様な詩語に過ぎないのだ。――こう言う風に、特に詩語として用いられた古語を見くびろうとする。だが明治以後どの詩派が、最古語を用いたか。それを考えると、我々の予期する所とは反対になっている。有明・泣菫以下の象徴詩勃興時代の詩人たちを見ると、皆驚くばかり古語を使っている。あの古語なんかに何の関係も持たない様に見える泡鳴すら、盛にこれを利用している。蒲原氏にも同様の傾向はあったが、――古語を活《いか》し、古語と近代語・現代語との
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