い》る者である。併し私にとっては、古語は完全な第二国語である。私らの場合はむしろ外国語に持つ感覚に似たものを、古語に感じて其連接せられた文章の上に、生命を托《たく》しているのである。
外国語は全体としては、われわれと生命のつながりは、非常に乏しい。併し乏しいだけに、――切っても切れない、でも其を強いても断絶させて行かなければ、生命ある表現の出来ないと言う国語の系統や、類型から離れた表現が期待せられる。古語の場合もそれに似て、近代語の持つ平俗な関聯や、知識を截《き》り放してしまう事が出来る。それだけに、親しみの点に於ては、われわれの今使っている第一国語と一つづきである祖先語だが、特別な語学的教養のある人以外には、まるきり外国語と同じものである。だから又、現在の言葉と関係のない古語である程、そこに効果が出る訣だ。唯言語の一部分に於て、われわれの知っている中世語或は古語の結びつきを見る事もある。時としてはその単語全体が、読者にとっては唯祖先語であると言うだけの親しみを感じさせるに過ぎないものもある。そういう古語が、平俗な口語文体の中にちらばらとはめ込まれているところから、一遍に凡庸な国語と感
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