おおやまと》びとなる父の書いた文《もん》。指から腕、腕から胸、胸から又心へ、沁《し》み沁《じ》みと深く、魂を育てる智慧の這入《はい》って行くのを、覚えたのである。
大日本日高見《おおやまとひたかみ》の国。国々に伝わるありとある歌諺《うたことわざ》、又其|旧辞《もとつごと》。第一には、中臣の氏の神語り。藤原の家の古物語り。多くの語《かた》り詞《ごと》を、絶えては考え継ぐ如く、語り進んでは途切れ勝ちに、呪々《のろのろ》しく、くねくねしく、独り語りする語部や、乳母《おも》や、嚼母《まま》たちの唱える詞《ことば》が、今更めいて、寂しく胸に蘇《よみがえ》って来る。
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おお、あれだけの習しを覚える、ただ其だけで、此世に生きながらえて行かねばならぬみずから[#「みずから」に傍点]であった。
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父に感謝し、次には、尊い大叔母君、其から見ぬ世の曾祖母《おおおば》の尊《みこと》に、何とお礼申してよいか、量り知れぬものが、心にたぐり上げて来る。だが[#「だが」に傍点]まず、父よりも誰よりも、御礼申すべきは、み仏である。この珍貴《うず》の感覚《さとり》を授け給う、限り知られぬ愛《めぐ》みに充ちたよき人[#「よき人」に傍点]が、此世界の外に、居られたのである。郎女《いらつめ》は、塗香《ずこう》をとり寄せて、まず髪に塗り、手に塗り、衣を薫《かお》るばかりに匂わした。

   十一

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ほほき ほほきい ほほほきい――。
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きのうよりも、澄んだよい日になった。春にしては、驚くばかり濃い日光が、地上にかっきりと、木草の影を落して居た。ほかほかした日よりなのに、其を見ていると、どこか、薄ら寒く感じるほどである。時々に過ぎる雲の翳《かげ》りもなく、晴れきった空だ。高原を拓《ひら》いて、間引いた疎《まば》らな木原《こはら》の上には、もう沢山の羽虫が出て、のぼったり降《さが》ったりして居る。たった一羽の鶯が、よほど前から一処を移らずに、鳴き続けているのだ。
家の刀自《とじ》たちが、物語る口癖を、さっきから思い出して居た。出雲宿禰《いずものすくね》の分れの家の嬢子《おとめ》が、多くの男の言い寄るのを煩しがって、身をよけよけして、何時か、山の林の中に分け入った。そうして其処で、まどろんで居る中に、悠々《うらうら》と長い春の日も、暮れてしまった。嬢子は、家路と思う径《みち》を、あちこち歩いて見た。脚は茨《いばら》の棘《とげ》にさされ、袖《そで》は、木の楚《ずわえ》にひき裂かれた。そうしてとうとう、里らしい家群《いえむら》の見える小高い岡の上に出た時は、裳も、著物《きもの》も、肌の出るほど、ちぎれて居た。空には、夕月が光りを増して来ている。嬢子はさくり上げて来る感情を、声に出した。
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ほほき ほほきい。
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何時も、悲しい時に泣きあげて居た、あの声ではなかった。「おお此身は」と思った時に、自分の顔に触れた袖は袖ではないものであった。枯《か》れ原《ふ》の冬草の、山肌色をした小な翼であった。思いがけない声を、尚も出し続けようとする口を、押えようとすると、自身すらいとおしんで居た柔らかな唇は、どこかへ行ってしまって、替りに、ささやかな管のような喙《くちばし》が来てついて居る――。悲しいのか、せつないのか、何の考えさえもつかなかった。唯、身悶《みもだ》えをした。するとふわり[#「ふわり」に傍点]と、からだは宙に浮き上った。留めようと、袖をふれば振るほど、身は次第に、高く翔《かけ》り昇って行く。五日月の照る空まで……。その後、今の世までも、
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ほほき ほほきい ほほほきい。
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と鳴いているのだ、と幼い耳に染みつけられた、物語りの出雲の嬢子が、そのまま、自分であるような気がして来る。
郎女は、徐《しず》かに両袖《もろそで》を、胸のあたりに重ねて見た。家に居た時よりは、褻《な》れ、皺立《しわだ》っているが、小鳥の羽には、なって居なかった。手をあげて唇に触れて見ると、喙でもなかった。やっぱり、ほっとり[#「ほっとり」に傍点]とした感触を、指の腹に覚えた。
ほほき鳥―鶯―になって居た方がよかった。昔語りの嬢子は、男を避けて、山の楚原《しもとはら》へ入り込んだ。そうして、飛ぶ鳥になった。この身は、何とも知れぬ人の俤《おもかげ》にあくがれ出て、鳥にもならずに、ここにこうして居る。せめて蝶飛虫《ちょうとり》にでもなれば、ひらひらと空に舞いのぼって、あの山の頂へ、俤びとをつきとめに行こうもの――。
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ほほき ほほきい。
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自身の咽喉《のど》から出た声だ、と思った。だがやはり、
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