じのかみ》たる人の考えをすら、否みとおす事もある姥《うば》たちであった。
其老女たちすら、郎女の天稟《てんぴん》には、舌を捲《ま》きはじめて居た。
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もう、自身たちの教えることものうなった。
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こう思い出したのは、数年も前からである。内に居る、身狭乳母《むさのちおも》・桃花鳥野乳母《つきぬのまま》・波田坂上刀自《はたのさかのえのとじ》、皆故知らぬ喜びの不安から、歎息《たんそく》し続けていた。時々伺いに出る中臣志斐嫗《なかとみのしいのおむな》・三上水凝刀自女《みかみのみずごりのとじめ》なども、来る毎、目を見合せて、ほうっとした顔をする。どうしよう、と相談するような人たちではない。皆無言で、自分等の力の及ばぬ所まで来た、姫の魂の成長にあきれて、目をみはるばかりなのだ。
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才を習うなと言うなら、まだ聞きも知らぬこと、教えて賜《たも》れ。
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素直な郎女の求めも、姥たちにとっては、骨を刺しとおされるような痛さであった。
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何を仰せられまする。以前から、何一つお教えなど申したことがおざりましょうか。目下の者が、目上のお方さまに、お教え申すと言うような考えは、神様がお聞き届けになりません。教える者は目上、ならう者は目下、と此が、神の代からの掟でおざりまする。
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志斐嫗の負け色を救う為に、身狭乳母も口を挿《はさ》む。
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唯知った事を申し上げるだけ。其を聞きながら、御心がお育ち遊ばす。そう思うて、姥たちも、覚えただけの事は、郎女様のみ魂《たま》を揺《いぶ》る様にして、歌いもし、語りもして参りました。教えたなど仰っては私めらが罰を蒙《こうむ》らなければなりません。
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こんな事をくり返して居る間に、刀自たちにも、自分らの恃《たの》む知識に対する、単純な自覚が出て来た。此は一層、郎女の望むままに、才を習した方が、よいのではないか、と言う気が、段々して来たのである。
まことに其為には、ゆくりない事が、幾重にも重って起った。姫の帳台の後から、遠くに居る父の心尽しだったと見えて、二巻の女手《おんなで》の写経らしい物が出て来た。姫にとっては、肉縁はないが、曾祖母《ひおおば》にも当る橘《たちばな》夫人の法華経、又其|御胎《おはら》にいらせられる――筋から申せば、大叔母御にもお当り遊ばす、今の皇太后様の楽毅論《がっきろん》。此二つの巻物が、美しい装いで、棚を架いた上に載せてあった。
横佩大納言と謂われた頃から、父は此二部を、自分の魂のように大事にして居た。ちょっと出る旅にも、大きやかな箱に納めて、一人分の資人《とねり》の荷として、持たせて行ったものである。其魂の書物を、姫の守りに留めておきながら、誰にも言わずにいたのである。さすがに我強《がづよ》い刀自たちも、此見覚えのある、美しい箱が出て来た時には、暫らく撲《う》たれたように、顔を見合せて居た。そうして後《のち》、後《あと》で恥しかろうことも忘れて、皆声をあげて泣いたものであった。
郎女は、父の心入れを聞いた。姥たちの見る目には、併し予期したような興奮は、認められなかった。唯|一途《いちず》に素直に、心の底の美しさが匂い出たように、静かな、美しい眼で、人々の感激する様子を、驚いたように見まわして居た。
其からは、此二つの女手の「本」を、一心に習いとおした。偶然は友を誘《ひ》くものであった。一月も立たぬ中の事である。早く、此都に移って居た飛鳥寺《あすかでら》―元興寺《がんこうじ》―から巻数《かんず》が届けられた。其には、難波にある帥《そつ》の殿の立願《りゅうがん》によって、仏前に読誦《とくしょう》した経文の名目が、書き列《つら》ねてあった。其に添えて、一巻の縁起文が、此御館へ届けられたのである。
父藤原豊成朝臣、亡父贈太政大臣七年の忌みに当る日に志を発《おこ》して、書き綴った「仏本伝来記」を、其後二年立って、元興寺へ納めた。飛鳥以来、藤原氏とも関係の深かった寺なり、本尊なのである。あらゆる念願と、報謝の心を籠《こ》めたもの、と言うことは察せられる。其一巻が、どう言う訣《わけ》か、二十年もたってゆくりなく、横佩家へ戻って来たのである。
郎女の手に、此巻が渡った時、姫は端近く膝行《いざ》り出て、元興寺の方を礼拝した。其後で、
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難波とやらは、どちらに当るかえ。
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と尋ねて、示す方角へ、活《い》き活《い》きした顔を向けた。其目からは、珠数の珠《たま》の水精《すいしょう》のような涙が、こぼれ出ていた。
其からと言うものは、来る日もくる日も、此元興寺の縁起文を手写した。内典・外典其上に又、大日本《
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