死者の書
折口信夫
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼《か》の人
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)偶然|強《こわ》ばった
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例)たか/″\に
−−
一
彼《か》の人の眠りは、徐《しず》かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱《よど》んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫《まつげ》と睫とが離れて来る。膝が、肱《ひじ》が、徐《おもむ》ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれ[#「ひきつれ」に傍点]を起しかけているのだ。
そうして、なお深い闇。ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まず圧《あっ》しかかる黒い巌《いわお》の天井を意識した。次いで、氷になった岩牀《いわどこ》。両脇に垂れさがる荒石の壁。したしたと、岩伝う雫《しずく》の音。
時がたった――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであった。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋《つなが》って、ありありと、目に沁《し》みついているようである。
[#ここから1字下げ]
ああ耳面刀自《みみものとじ》。
[#ここで字下げ終わり]
甦《よみがえ》った語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。
[#ここから1字下げ]
耳面刀自。おれはまだお前を……思うている。おれはきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もっともっと長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。耳面刀自。ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。
[#ここで字下げ終わり]
古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくっと[#「のくっと」に傍点]起き直ろうとした。だが、筋々が断《き》れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫《くじ》けるような、疼《うず》きを覚えた。……そうして尚、じっと、――じっとして居る。射干玉《ぬばたま》の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。耳面刀自の記憶。ただ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓《ひろが》って、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想《れんそう》の紐《ひも》に貫いて行く。そうして明るい意思が、彼の人の死枯《しにが》れたからだに、再《ふたたび》立ち直って来た。
[#ここから1字下げ]
耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまえのことを聞きわたった年月は、久しかった。おれによって来い。耳面刀自。
[#ここで字下げ終わり]
記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。
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おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、ここは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすっかり、おれは忘れた。
だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声《ね》を聞いたのだっけ。そうだ。訳語田《おさだ》の家を引き出されて、磐余《いわれ》の池に行った。堤の上には、遠捲《とおま》きに人が一ぱい。あしこの萱原《かやはら》、そこの矮叢《ぼさ》から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚《おら》び声を、挙げて居たっけな。あの声は残らず、おれをいとしがって居る、半泣きの喚《わめ》き声だったのだ。其でもおれの心は、澄みきって居た。まるで、池の水だった。あれは、秋だったものな。はっきり聞いたのが、水の上に浮いている鴨鳥の声だった。今思うと――待てよ。其は何だか一目惚《ひとめぼ》れの女の哭《な》き声だった気がする。――おお、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるような刹那《せつな》を、通った気がした。俄《にわ》かに、楽な広々とした世間に、出たような感じが来た。そうして、ほんの暫らく、ふっ[#「ふっ」に傍点]とそう考えたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去った――おれ自分すら、おれが何だか、ちっとも訣《わか》らぬ世界のものになってしまったのだ。
ああ、其時きり、おれ
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