自身、このおれを、忘れてしまったのだ。
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足の踝《くるぶし》が、膝の膕《ひつかがみ》が、腰のつがい[#「つがい」に傍点]が、頸《くび》のつけ根が、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》が、ぼんの窪が――と、段々上って来るひよめきの為に蠢《うごめ》いた。自然に、ほんの偶然|強《こわ》ばったままの膝が、折り屈《かが》められた。だが、依然として――常闇《とこやみ》。
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おおそうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女《みこ》――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活《い》けに来ている。
姉御。ここだ。でもおまえさまは、尊い御神《おんかみ》に仕えている人だ。おれのからだに、触ってはならない。そこに居るのだ。じっとそこに、踏み止《とま》って居るのだ。――ああおれは、死んでいる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。そうだ。此は、おれの墓だ。
いけない。そこを開けては。塚の通い路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。
なあんだ。誰も、来ては居なかったのだな。ああよかった。おれのからだが、天日《てんぴ》に暴《さら》されて、見る見る、腐るところだった。だが、おかしいぞ。こうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言って居たのも今《いんま》の事――だったと思うのだが。昔だ。
おれのここへ来て、間もないことだった。おれは知っていた。十月だったから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻《ね》じちぎられて、何も訣らぬものになったことも。こうつと[#「こうつと」に傍点]――姉御が、墓の戸で哭き喚いて、歌をうたいあげられたっけ。「巌岩《いそ》の上に生ふる馬酔木《あしび》を」と聞えたので、ふと[#「ふと」に傍点]、冬が過ぎて、春も闌《た》け初めた頃だと知った。おれの骸《むくろ》が、もう半分融け出した時分だった。そのあと[#「あと」に傍点]、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。そう言われたので、はっきりもう、死んだ人間になった、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさわって見たら、驚いたことに、おれのからだは、著《き》こんだ著物の下で、※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《ほじし》のように、ぺしゃんこになって居た――。
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臂《かいな》が動き出した。片手は、まっくらな空《くう》をさした。そうして、今一方は、そのまま、岩牀《いわどこ》の上を掻き捜《さぐ》って居る。
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うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山《ふたかみやま》を愛兄弟《いろせ》と思はむ
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誄歌《なきうた》が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌ってくれたのだ。其で知ったのは、おれの墓と言うものが、二上山の上にある、と言うことだ。
よい姉御だった。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになってしまった。
其から、どれほどたったのかなあ。どうもよっぽど、長い間だった気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢を醒《さま》された感じだった。其に比べると、今度は深い睡りの後《あと》見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が――。
手にとるようだ。目に見るようだ。心を鎮めて――。鎮めて。でないと、この考えが、復《また》散らかって行ってしまう。おれの昔が、ありありと訣って来た。だが待てよ。……其にしても一体、ここに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫《つま》なのだ。其をおれは、忘れてしまっているのだ。
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両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐって居る。そうしてまるで、生き物のするような、深い溜《た》め息《いき》が洩《も》れて出た。
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大変だ。おれの著物は、もうすっかり朽《くさ》って居る。おれの褌《はかま》は、ほこりになって飛んで行った。どうしろ、と言うのだ。此おれは、著物もなしに、寝て居るのだ。
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筋ばしるように、彼《か》の人のからだに、血の馳《か》け廻るに似たものが、過ぎた。肱《ひじ》を支えて、上半身が闇の中に起き上った。
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おお寒い。おれを、どうしろと仰《おっしゃ》るのだ。尊いおっかさま。おれが悪かったと言うのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまいます。
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彼の人には、声であった。だが、声でないものとして、消えてしまった。声でない語《ことば》が、何時までも続いている。
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くれろ。おっかさま。著物がなくなった。すっぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。
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