おれは。こんなに、寝床の上を這いずり廻っているのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばたばたやっているおれの、見える奴が居ぬのか。
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その唸《うめ》き声のとおり、彼の人の骸は、まるでだだをこねる赤子のように、足もあががに、身あがきをば、くり返して居る。明りのささなかった墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたたずまいを、幾分|朧《おぼ》ろに、見わけることが出来るようになって来た。どこからか、月光とも思える薄あかりが、さし入って来たのである。
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どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆《さ》びついてしまった……。
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   二

月は、依然として照って居た。山が高いので、光りにあたるものが少かった。山を照し、谷を輝かして、剰《あま》る光りは、又空に跳ね返って、残る隈々《くまぐま》までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、沢山の峰があった。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあって、深々と畝《うね》っている。其が見えたり隠れたりするのは、この夜更けになって、俄かに出て来た霞の所為《せい》だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほっとり[#「ほっとり」に傍点]と、暖かく感じさせて居る。
広い端山《はやま》の群った先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く続いた、輝く大佩帯《おおおび》は、石川である。その南北に渉《わた》っている長い光りの筋が、北の端で急に広がって見えるのは、凡河内《おおしこうち》の邑《むら》のあたりであろう。其へ、山間《やまあい》を出たばかりの堅塩《かたしお》川―大和川―が落ちあって居るのだ。そこから、乾《いぬい》の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列《つらな》って見えるのは、日下江《くさかえ》・永瀬江《ながせえ》・難波江《なにわえ》などの水面であろう[#「あろう」は底本では「あらう」]。
寂《しず》かな夜である。やがて鶏鳴近い山の姿は、一様に露に濡れたように、しっとりとして静まって居る。谷にちらちらする雪のような輝きは、目の下の山田谷に多い、小桜の遅れ咲きである。
一本の路が、真直に通っている。二上山の男岳《おのかみ》・女岳《めのかみ》の間から、急に降《さが》って来るのである。難波から飛鳥《あすか》の都への古い間道なので、日によっては、昼は相応な人通りがある。道は白々と広く、夜目には、芝草の蔓《は》って居るのすら見える。当麻路《たぎまじ》である。一降《ひとくだ》りして又、大降《おおくだ》りにかかろうとする処が、中だるみに、やや坦《ひらた》くなっていた。梢の尖《とが》った栢《かえ》の木の森。半世紀を経た位の木ぶりが、一様に揃って見える。月の光りも薄い木陰全体が、勾配《こうばい》を背負って造られた円塚であった。月は、瞬きもせずに照し、山々は、深く※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》を閉じている。
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こう こう こう。
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先刻《さっき》から、聞えて居たのかも知れぬ。あまり寂《しず》けさに馴れた耳は、新な声を聞きつけよう、としなかったのであろう。だから、今珍しく響いて来た感じもないのだ。
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こう こう こう――こう こう こう。
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確かに人声である。鳥の夜声とは、はっきりかわった韻《ひびき》を曳《ひ》いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って張りきっている。この山の峰つづきに見えるのは、南に幾重ともなく重った、葛城《かつらぎ》の峰々である。伏越《ふしごえ》・櫛羅《くしら》・小巨勢《こごせ》と段々高まって、果ては空の中につき入りそうに、二上山と、この塚にのしかかるほど、真黒に立ちつづいている。
当麻路をこちらへ降って来るらしい影が、見え出した。二つ三つ五つ……八つ九つ。九人の姿である。急な降りを一気に、この河内路へ馳《か》けおりて来る。
九人と言うよりは、九柱の神であった。白い著物《きもの》・白い鬘《かずら》、手は、足は、すべて旅の装束《いでたち》である。頭より上に出た杖をついて――。この坦《たいら》に来て、森の前に立った。
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こう こう こう。
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誰の口からともなく、一時に出た叫びである。山々のこだま[#「こだま」に傍点]は、驚いて一様に、忙しく声を合せた。だが、山は、忽《たちまち》一時の騒擾《そうじょう》から、元の緘黙《しじま》に戻ってしまった。
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こう。こう。お出でなされ。藤原|南家《なんけ》郎女《いらつめ》の御魂《みたま》。
こんな奥山に、迷うて居るものではない。早く、もとの身に戻れ。こう こう。
お身さまの魂を、今、山たずね尋ねて、尋
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