廬《いおり》の外で鳴くのであった。
郎女の心に動き初めた叡《さと》い光りは、消えなかった。今まで手習いした書巻の何処かに、どうやら、法喜と言う字のあった気がする。法喜[#「法喜」に傍点]――飛ぶ鳥すらも、美しいみ仏の詞に、感《かま》けて鳴くのではなかろうか。そう思えば、この鶯も、
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ほほき ほほきい。
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嬉しそうな高音を、段々張って来る。
物語りする刀自たちの話でなく、若人らの言うことは、時たま、世の中の瑞々《みずみず》しい消息《しょうそこ》を伝えて来た。奈良の家の女部屋は、裏方五つ間を通した、広いものであった。郎女の帳台の立ち処《ど》を一番奥にして、四つの間に、刀自・若人、凡《およそ》三十人も居た。若人等は、この頃、氏々の御館《みたち》ですることだと言って、苑《その》の池の蓮の茎を切って来ては、藕糸《はすいと》を引く工夫に、一心になって居た。横佩家の池の面を埋めるほど、珠を捲《ま》いたり、解けたりした蓮の葉は、まばらになって、水の反射が蔀《しとみ》を越して、女部屋まで来るばかりになった。茎を折っては、繊維を引き出し、其片糸を幾筋も合せては、糸に縒《よ》る。
郎女は、女たちの凝っている手芸を、じっと見て居る日もあった。ほうほうと切れてしまう藕糸を、八|合《こ》・十二|合《こ》・二十合《はたこ》に縒って、根気よく、細い綱の様にする。其を績《う》み麻《お》の麻《お》ごけ[#「ごけ」に傍点]に繋《つな》ぎためて行く。奈良の御館でも、蚕《かうこ》は飼って居た。実際、刀自たちは、夏は殊にせわしく、そのせいで、不機嫌になって居る日が多かった。
刀自たちは、初めは、そんな韓《から》の技人《てびと》のするような事は、と目もくれなかった。だが時が立つと、段々興味を惹《ひ》かれる様子が見えて来た。
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こりゃ、おもしろい。絹の糸と、績み麻との間を行く様な妙な糸の――。此で、切れさえしなければのう。
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こうして績《つむ》ぎ蓄《た》めた藕糸は、皆|一纏《ひとまと》めにして、寺々に納めようと、言うのである。寺には、其々《それそれ》の技女《ぎじょ》が居て、其糸で、唐土様《もろこしよう》と言うよりも、天竺風《てんじくふう》な織物に織りあげる、と言う評判であった。女たちは、唯功徳の為に糸を績いでいる。其でも、其が幾かせ[#「かせ」に傍点]、幾たま[#「たま」に傍点]と言う風に貯《たま》って来ると、言い知れぬ愛著《あいちゃく》を覚えて居た。だが、其がほんとは、どんな織物になることやら、其処までは想像も出来なかった。
若人たちは茎を折っては、巧みに糸を引き切らぬように、長く長くと抽《ぬ》き出す。又其、粘り気の少いさくい[#「さくい」に傍点]ものを、まるで絹糸を縒り合せるように、手際よく糸にする間も、ちっとでも口やめる事なく、うき世語りなどをして居た。此は勿論、貴族の家庭では、出来ぬ掟《おきて》になって居た。なっては居ても、物珍《ものめ》でする盛りの若人たちには、口を塞《ふさ》いで緘黙行《しじま》を守ることは、死ぬよりもつらい行《ぎょう》であった。刀自らの油断を見ては、ぼつぼつ話をしている。其きれぎれが、聞こうとも思わぬ郎女の耳にも、ぼつぼつ這入《はい》って来勝ちなのであった。
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鶯の鳴く声は、あれで、法華経《ほけきょう》法華経《ほけきょう》と言うのじやて――。
ほう、どうして、え――。
天竺のみ仏は、おなご[#「おなご」に傍点]は、助からぬものじゃと、説かれ説かれして来たがえ、其果てに、女《おなご》でも救う道が開かれた。其を説いたのが、法華経じゃと言うげな。
――こんなこと、おなごの身で言うと、さかしがりよと思おうけれど、でも、世間では、そう言うもの――。
じゃで、法華経法華経と経の名を唱えるだけで、この世からして、あの世界の苦しみが、助かるといの。
ほんまにその、天竺《てんじく》のおなごが、あの鳥に化《な》り変って、み経の名を呼ばるるのかえ。
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郎女《いらつめ》には、いつか小耳に挿《はさ》んだ其話が、その後、何時までも消えて行かなかった。その頃ちょうど、称讃浄土仏摂受経《しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう》を、千部写そうとの願を発《おこ》して居た時であった。其が、はかどらぬ。何時までも進まぬ。茫《ぼう》とした耳に、此|世話《よばなし》が再また、紛《まぎ》れ入って来たのであった。
ふっと、こんな気がした。
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ほほき鳥は、先の世で、御経《おんきょう》手写の願を立てながら、え果さいで、死にでもした、いとしい女子がなったのではなかろうか。……そう思えば、若《も》しや今、千部に満たずにしまうようなことがあったら
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