もない方に、目を凝して、何時までも端坐して居た。郎女の心は、其時から愈々澄んだ。併し、極めて寂しくなり勝《まさ》って行くばかりである。
ゆくりない日が、半年の後に再来て、姫の心を無上《むしょう》の歓喜に引き立てた。其は、同じ年の秋、彼岸中日の夕方であった。姫は、いつかの春の日のように、坐していた。朝から、姫の白い額の、故もなくひよめいた[#「ひよめいた」に傍点]長い日の、後《のち》である。二上山の峰を包む雲の上に、中秋の日の爛熟《らんじゅく》した光りが、くるめき出したのである。雲は火となり、日は八尺の鏡と燃え、青い響きの吹雪を、吹き捲《ま》く嵐――。
雲がきれ、光りのしずまった山の端は細く金の外輪を靡《なび》かして居た。其時、男岳・女岳の峰の間に、ありありと浮き出た 髪 頭 肩 胸――。
姫は又、あの俤を見ることが、出来たのである。
南家の郎女の幸福な噂が、春風に乗って来たのは、次の春である。姫は別様の心躍りを、一月も前から感じて居た。そうして、日を数《と》り初めて、ちょうど、今日と言う日。彼岸中日、春分の空が、朝から晴れて、雲雀《ひばり》は天に翔《かけ》り過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々とたなびいて居た。郎女は、九百九十九部を写し終えて、千部目にとりついて居た。日一日、のどかな温い春であった。経巻の最後の行、最後の字を書きあげて、ほっと息をついた。あたりは俄かに、薄暗くなって居る。目をあげて見る蔀窓《しとみど》の外には、しとしとと――音がしたたって居るではないか。姫は立って、手ずから簾《すだれ》をあげて見た。雨。
苑《その》の青菜が濡れ、土が黒ずみ、やがては瓦屋にも、音が立って来た。
姫は、立っても坐《い》ても居られぬ、焦躁《しょうそう》に悶《もだ》えた。併し日は、益々暗くなり、夕暮れに次いで、夜が来た。
茫然《ぼうぜん》として、姫はすわって居る。人声も、雨音も、荒れ模様に加って来た風の響きも、もう、姫は聞かなかった。
七
南家の郎女の神隠しに遭ったのは、其夜であった。家人は、翌朝空が霽れ、山々がなごりなく見えわたる時まで、気がつかずに居た。横佩墻内《よこはきかきつ》に住む限りの者は、男も、女も、上の空になって、洛中《らくちゅう》洛外《らくがい》を馳《は》せ求めた。そうした奔《はし》り人《びと》の多く見出される場処と言う場処は、残りなく捜された。春日山の奥へ入ったものは、伊賀境までも踏み込んだ。高円山《たかまどやま》の墓原も、佐紀の沼地・雑木原も、又は、南は山村《やまむら》、北は奈良山、泉川の見える処まで馳せ廻って、戻る者も戻る者も、皆|空足《からあし》を踏んで来た。
姫は、何処をどう歩いたか、覚えがない。唯家を出て、西へ西へと辿《たど》って来た。降り募るあらしが、姫の衣を濡した。姫は、誰にも教わらないで、裾を脛《はぎ》まであげた。風は、姫の髪を吹き乱した。姫は、いつとなく、髻《もとどり》をとり束ねて、襟から着物の中に、含《くく》み入れた。夜中になって、風雨が止み、星空が出た。
姫の行くてには常に、二つの峰の並んだ山の立ち姿がはっきりと聳《そび》えて居た。毛孔《けあな》の竪《た》つような畏《おそろ》しい声を、度々聞いた。ある時は、鳥の音であった。其後、頻《しき》りなく断続したのは、山の獣の叫び声であった。大和の内も、都に遠い広瀬・葛城あたりには、人居などは、ほんの忘れ残りのように、山陰などにあるだけで、あとは曠野《あらの》。それに――本村《ほんむら》を遠く離れた、時はずれの、人|棲《す》まぬ田居《たい》ばかりである。
片破れ月が、上《あが》って来た。其が却《かえっ》て、あるいている道の辺《ほとり》の凄《すご》さを照し出した。其でも、星明りで辿って居るよりは、よるべを覚えて、足が先へ先へと出た。月が中天へ来ぬ前に、もう東の空が、ひいわり[#「ひいわり」に傍点]白んで来た。
夜のほのぼの明けに、姫は、目を疑うばかりの現実に行きあった。――横佩家の侍女たちは何時も、夜の起きぬけに、一番最初に目撃した物事で、日のよしあしを、占って居るようだった。そう言う女どものふるまいに、特別に気は牽《ひ》かれなかった郎女だけれど、よく其人々が、「今朝の朝目がよかったから」「何と言う情ない朝目でしょう」などと、そわそわと興奮したり、むやみに塞《ふさ》ぎこんだりして居るのを、見聞きしていた。
郎女《いらつめ》は、生れてはじめて、「朝目よく」と謂《い》った語を、内容深く感じたのである。目の前に赤々と、丹塗《にぬ》りに照り輝いて、朝日を反射して居るのは、寺の大門ではないか。そうして、門から、更に中門が見とおされて、此もおなじ丹塗りに、きらめいて居る。
山裾の勾配《こうばい》に建てられた堂・塔・伽藍《がらん》は、更に奥深く、朱《あけ》に、
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