うまでには、行って居なかった。
官庁や、大寺が、にょっきりにょっきり、立っている外は、貴族の屋敷が、処々むやみに場をとって、その相間相間に、板屋や瓦屋《かわらや》が、交りまじりに続いている。其外は、広い水田と、畠と、存外多い荒蕪地《こうぶち》の間に、人の寄りつかぬ塚や岩群《いわむら》が、ちらばって見えるだけであった。兎や、狐が、大路小路を駆け廻る様なのも、毎日のこと。つい此頃も、朱雀大路《しゅじゃくおおじ》の植え木の梢を、夜になると、※[#「鼠+吾」、第4水準2−94−68]鼠《むささび》が飛び歩くと言うので、一騒ぎした位である。
横佩家の郎女が、称讃浄土仏摂受経《しょうさんじょうどぶつしょうじゅぎょう》を写しはじめたのも、其頃からであった。父の心づくしの贈り物の中で、一番、姫君の心を饒《にぎ》やかにしたのは、此新訳の阿弥陀経《あみだきょう》一巻《いちかん》であった。
国の版図の上では、東に偏り過ぎた山国の首都よりも、太宰府は、遥かに開けていた。大陸から渡る新しい文物は、皆一度は、この遠《とお》の宮廷領《みかど》を通過するのであった。唐から渡った書物などで、太宰府ぎりに、都まで出て来ないものが、なかなか多かった。
学問や、芸術の味いを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであった。
南家の郎女《いらつめ》の手に入った称讃浄土経も、大和一国の大寺《おおてら》と言う大寺に、まだ一部も蔵せられて居ぬものであった。
姫は、蔀戸《しとみど》近くに、時としては机を立てて、写経をしていることもあった。夜も、侍女たちを寝静まらしてから、油火《あぶらび》の下で、一心不乱に書き写して居た。
百部は、夙《はや》くに写し果した。その後は、千部手写の発願をした。冬は春になり、夏山と繁った春日山も、既に黄葉《もみじ》して、其がもう散りはじめた。蟋蟀《こおろぎ》は、昼も苑《その》一面に鳴くようになった。佐保川の水を堰《せ》き入れた庭の池には、遣り水伝いに、川千鳥の啼《な》く日すら、続くようになった。
今朝も、深い霜朝を、何処からか、鴛鴦《おしどり》の夫婦鳥《つまどり》が来て浮んで居ります、と童女《わらわめ》が告げた。
五百部を越えた頃から、姫の身は、目立ってやつれて来た。ほんの纔《わず》かの眠りをとる間も、ものに驚いて覚めるようになった。其でも、八百部の声を聞く時分になると、衰えたなりに、健康は定まって来たように見えた。やや蒼みを帯びた皮膚に、心もち細って見える髪が、愈々《いよいよ》黒く映え出した。
八百八十部、九百部。郎女は侍女にすら、ものを言うことを厭《いと》うようになった。そうして、昼すら何か夢見るような目つきして、うっとり蔀戸ごしに、西の空を見入って居るのが、皆の注意をひくほどであった。
実際、九百部を過ぎてからは筆も一向、はかどらなくなった。二十部・三十部・五十部。心ある女たちは、文字の見えない自身たちのふがいなさ[#「ふがいなさ」に傍点]を悲しんだ。郎女の苦しみを、幾分でも分けることが出来ように、と思うからである。
南家の郎女が、宮から召されることになるだろうと言う噂が、京・洛外《らくがい》に広がったのも、其頃である。屋敷中の人々は、上近く事《つか》える人たちから、垣内《かきつ》の隅に住む奴隷《やっこ》・婢奴《めやっこ》の末にまで、顔を輝かして、此とり沙汰を迎えた。でも姫には、誰一人其を聞かせる者がなかった。其ほど、此頃の郎女は気むつかしく、外目《よそめ》に見えていたのである。
千部手写の望みは、そうした大願から立てられたものだろう、と言う者すらあった。そして誰ひとり、其を否む者はなかった。
南家の姫の美しい膚《はだ》は、益々透きとおり、潤んだ目は、愈々大きく黒々と見えた。そうして、時々声に出して誦《じゅ》する経の文《もん》が、物の音《ね》に譬《たと》えようもなく、さやかに人の耳に響く。聞く人は皆、自身の耳を疑うた。
去年の春分の日の事であった。入り日の光りをまともに受けて、姫は正座して、西に向って居た。日は、此屋敷からは、稍《やや》坤《ひつじさる》によった遠い山の端に沈むのである。西空の棚雲の紫に輝く上で、落日は俄《にわ》かに転《くるめ》き出した。その速さ。雲は炎になった。日は黄金《おうごん》の丸《まるがせ》になって、その音も聞えるか、と思うほど鋭く廻った。雲の底から立ち昇る青い光りの風――、姫は、じっと見つめて居た。やがて、あらゆる光りは薄れて、雲は霽《は》れた。夕闇の上に、目を疑うほど、鮮やかに見えた山の姿。二上山である。その二つの峰の間に、ありありと荘厳《しょうごん》な人の俤《おもかげ》が、瞬間|顕《あらわ》れて消えた。後《あと》は、真暗な闇の空である。山の端も、雲も何
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