家を出る時、ほんの暫し、心を掠《かす》めた――父君がお聞きになったら、と言う考えも、もう気にはかからなくなって居る。乳母があわてて探すだろう、と言う心が起って来ても、却《かえっ》てほのかな、こみあげ笑いを誘う位の事になっている。
山はずっしりとおちつき、野はおだやかに畝《うね》って居る。こうして居て、何の物思いがあろう。この貴《あて》な娘御は、やがて後をふり向いて、山のなぞえについて、次第に首をあげて行った。
二上山。ああこの山を仰ぐ、言い知らぬ胸騒ぎ。――藤原・飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すっかり違った胸の悸《ときめ》き。旅の郎女は、脇目も触らず、山に見入っている。そうして、静かな思いの充ちて来る満悦を、深く覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂《い》わば、――平野の里に感じた喜びは、過去生《かこしょう》に向けてのものであり、今此山を仰ぎ見ての驚きは、未来世《みらいせ》を思う心躍りだ、とも謂えよう。
塔はまだ、厳重にやらい[#「やらい」に傍点]を組んだまま、人の立ち入りを禁《いまし》めてあった。でも、ものに拘泥することを教えられて居ぬ姫は、何時の間にか、塔の初重《しょじゅう》の欄干に、自分のよりかかって居るのに気がついた。そうして、しみじみと山に見入って居る。まるで瞳が、吸いこまれるように。山と自分とに繋《つなが》る深い交渉を、又くり返し思い初めていた。
郎女の家は、奈良東城、右京三条第七坊にある。祖父《おおじ》武智麻呂《むちまろ》のここで亡くなって後、父が移り住んでからも、大分の年月になる。父は男壮《おとこざかり》には、横佩《よこはき》の大将《だいしょう》と謂われる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて[#「だて」に傍点]者《もの》であった。なみ[#「なみ」に傍点]の人の竪《たて》にさげて佩く大刀を、横えて吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住人は、まだそうした官吏としての、華奢《きゃしゃ》な服装を趣向《この》むまでに到って居なかった頃、姫の若い父は、近代の時世装に思いを凝して居た。その家に覲《たず》ねて来る古い留学生や、新来《いまき》の帰化僧などに尋ねることも、張文成などの新作の物語りの類を、問題にするようなのとも、亦違うていた。
そうした闊達《かったつ》な、やまとごころの、赴くままにふるもうて居る間に、才《ざえ》優れた族人《うからびと》が、彼を乗り越して行くのに気がつかなかった。姫には叔父、彼――豊成には、さしつぎの弟、仲麻呂である。その父君も、今は筑紫に居る。尠《すくな》くとも、姫などはそう信じて居た。家族の半以上は、太宰帥《だざいのそつ》のはなばなしい生活の装いとして、連れられて行っていた。宮廷から賜る資人《とねり》・※[#「にんべん+兼」、第3水準1−14−36]仗《たち》も、大貴族の家の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らされて、皆任地へついて行った。そうして、奈良の家には、その年は亦とりわけ、寂しい若葉の夏が来た。
寂《しず》かな屋敷には、響く物音もない時が、多かった。この家も世間どおりに、女部屋は、日あたりに疎い北の屋にあった。その西側に、小な蔀戸《しとみど》があっ[#「っ」は底本では「つ」]て、其をつきあげると、方三尺位な※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》になるように出来ている。そうして、其内側には、夏冬なしに簾《すだれ》が垂れてあって、戸のあげてある時は、外からの隙見を禦《ふせ》いだ。
それから外廻りは、家の広い外郭になって居て、大炊屋《おおいや》もあれば、湯殿|火焼《ひた》き屋《や》なども、下人の住いに近く、立っている。苑《その》と言われる菜畠や、ちょっとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える、唯一の景色であった。
武智麻呂|存生《ぞんしょう》の頃から、此屋敷のことを、世間では、南家《なんけ》と呼び慣わして来ている。此頃になって、仲麻呂の威勢が高まって来たので、何となく其古い通称は、人の口から薄れて、其に替る称《とな》えが、行われ出した様だった。三条七坊をすっかり占めた大屋敷を、一垣内《ひとかきつ》――一字《ひとあざな》と見倣《みな》して、横佩《よこはき》墻内《かきつ》と言う者が、著しく殖えて来たのである。
その太宰府からの音ずれが、久しく絶えたと思っていたら、都とは目と鼻の難波に、いつか還《かえ》り住んで、遥かに筑紫の政を聴いていた帥の殿であった。其父君から遣された家の子が、一車《ひとくるま》に積み余るほどな家づとを、家に残った家族たち殊に、姫君にと言ってはこんで来た。
山国の狭い平野に、一代一代|都遷《みやこうつ》しのあった長い歴史の後、ここ五十年、やっと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なかなか整
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