この幸福な転変に、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って居るだろう。此郷に田荘《なりどころ》を残して、奈良に数代住みついた豪族の主人も、その日は、帰って来て居たっけ。此は、天竺《てんじく》の狐の為わざではないか、其とも、この葛城郡に、昔から残っている幻術師《まぼろし》のする迷わしではないか。あまり荘厳《しょうごん》を極めた建て物に、故知らぬ反感まで唆《そそ》られて、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものも、その供人《ともびと》のうちにはあった。
数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼって来て、唯一宇あった萱堂《かやどう》が、忽《たちまち》痕《あと》もなくなった。そんな小な事件が起って、注意を促してすら、そこに、曾《かつ》て美《うるわ》しい福田と、寺の創《はじ》められた代《よ》を、思い出す者もなかった程、それはそれは、微かな遠い昔であった。
以前、疑いを持ち初める里の子どもが、其堂の名に、不審を起した。当麻の村にありながら、山田寺《やまだでら》と言ったからである。山の背《うしろ》の河内の国|安宿部郡《あすかべごおり》の山田谷から移って二百年、寂しい道場に過ぎなかった。其でも一時は、倶舎《くしゃ》の寺として、栄えたこともあったのだった。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を、お夢に見られて、おん子を遣され、堂舎をひろげ、住侶《じゅうりょ》の数をお殖しになった。おいおい境内になる土地の地形《じぎょう》の進んでいる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。そうなる筈の、風水の相が、「まろこ」の身を招き寄せたのだろう。よしよし墓はそのまま、其村に築くがよい、との仰せがあった。其み墓のあるのが、あの麻呂子山だと言う。まろ子というのは、尊い御一族だけに用いられる語で、おれの子というほどの、意味であった。ところが、其おことばが縁を引いて、此郷の山には、其後亦、貴人をお埋め申すような事が、起ったのである。
だが、そう言う物語りはあっても、それは唯、此里の語部の姥《うば》の口に、そう伝えられている、と言うに過ぎぬ古物語りであった。纔《わず》かに百年、其短いと言える時間も、文字に縁遠い生活には、さながら太古を考えると、同じ昔となってしまった。
旅の若い女性《にょしょう》は、型摺《かたず》りの大様な美しい模様をおいた著《き》る物を襲うて居る。笠は、浅い縁《へり》に、深い縹色《はなだいろ》の布が、うなじを隠すほどに、さがっていた。
日は仲春、空は雨あがりの、爽《さわ》やかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、自《おのずか》ら遠く建って居た。唯|凡《およそ》、百人の僧俗が、寺《じ》中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養|饗宴《きょうえん》の疲れで、今日はまだ、遅い朝を、姿すら見せずにいる。
その女人は、日に向ってひたすら輝く伽藍《がらん》の廻りを、残りなく歩いた。寺の南|境《ざかい》は、み墓山の裾から、東へ出ている長い崎の尽きた所に、大門はあった。其中腹と、東の鼻とに、西塔・東塔が立って居る。丘陵の道をうねりながら登った旅びとは、東の塔の下に出た。雨の後の水気の、立って居る大和の野は、すっかり澄みきって、若昼《わかひる》のきらきらしい景色になって居る。右手の目の下に、集中して見える丘陵は傍岡《かたおか》で、ほのぼのと北へ流れて行くのが、葛城川だ。平原の真中に、旅笠を伏せたように見える遠い小山は、耳無《みみなし》の山《やま》であった。其右に高くつっ立っている深緑は、畝傍山《うねびやま》。更に遠く日を受けてきらつく水面は、埴安《はにやす》の池《いけ》ではなかろうか。其東に平たくて低い背を見せるのは、聞えた香具山なのだろう。旅の女子《おみなご》の目は、山々の姿を、一つ一つに辿《たど》っている。天香具山《あめのかぐやま》をあれだと考えた時、あの下が、若い父母《ちちはは》の育った、其から、叔父叔母、又一族の人々の、行き来した、藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬ、と知れて居ても、ひとりで、爪先立てて伸び上る気持ちになって来るのが抑えきれなかった。
香具山の南の裾に輝く瓦舎《かわらや》は、大官大寺《だいかんだいじ》に違いない。其から更に真南の、山と山との間に、薄く霞んでいるのが、飛鳥の村なのであろう。父の父も、母の母も、其又父母も、皆あのあたりで生い立たれたのであろう。この国の女子に生れて、一足も女部屋を出ぬのを、美徳とする時代に居る身は、親の里も、祖先の土も、まだ踏みも知らぬ。あの陽炎《かげろう》の立っている平原を、此足で、隅から隅まで歩いて見たい。
こう、その女性《にょしょう》は思うている。だが、何よりも大事なことは、此|郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、ここまで歩いて来ているのである。其も、唯のひとりでであった。
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