いる間に、姥は、郎女の内に動く心もちの、凡《およそ》は、気《け》どったであろう。暗いみ灯《あかし》の光りの代りに、其頃は、もう東白みの明りが、部屋の内の物の形を、朧《おぼ》ろげに顕《あらわ》しはじめて居た。
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我が説明《ことわけ》を、お聞きわけられませ。神代の昔びと、天若日子《あめわかひこ》。天若日子こそは、天《てん》の神々に弓引いた罪ある神。其すら、其|後《ご》、人の世になっても、氏貴い家々の娘御の閨《ねや》の戸までも、忍びよると申しまする。世に言う「天若みこ」と言うのが、其でおざります。
天若みこ。物語りにも、うき世語りにも申します。お聞き及びかえ。
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姥は暫らく口を閉じた。そ[#「そ」は底本では「さ」]うして言い出した声は、顔にも、年にも似ず、一段、はなやいで聞えた。
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「もゝつたふ」の歌、残された飛鳥の宮の執心びと、世々の藤原の一《いち》の媛《ひめ》に祟《たた》る天若みこも、顔清く、声心|惹《ひ》く天若みこのやはり、一人でおざりまする。
お心つけられませ。物語りも早、これまで。
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其まま石のように、老女はじっとして居る。冷えた夜も、朝影を感じる頃になると、幾らか温みがさして来る。
万法蔵院は、村からは遠く、山によって立って居た。暁早い鶏の声も、聞えぬ。もう梢を離れるらしい塒鳥《ねぐらどり》が、近い端山《はやま》の木群《こむら》で、羽振《はぶ》きの音を立て初めている。
五
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おれは活《い》きた。
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闇《くら》い空間は、明りのようなものを漂していた。併し其は、蒼黒い靄《もや》の如く、たなびくものであった。
巌ばかりであった。壁も、牀《とこ》も、梁《はり》も、巌であった。自身のからだすらが、既に、巌になって居たのだ。
屋根が壁であった。壁が牀であった。巌ばかり――。触っても触っても、巌ばかりである。手を伸すと、更に堅い巌が、掌に触れた。脚をひろげると、もっと広い磐石《ばんじゃく》の面《おもて》が、感じられた。
纔《わず》かにさす薄光りも、黒い巌石が皆吸いとったように、岩窟《いわむろ》の中に見えるものはなかった。唯けはい[#「けはい」に傍点]――彼の人の探り歩くらしい空気の微動があった。
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思い出したぞ。おれが誰だったか、――訣《わか》ったぞ。
おれだ。此おれだ。大津の宮に仕え、飛鳥の宮に呼び戻されたおれ。滋賀津彦《しがつひこ》。其が、おれだったのだ。
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歓びの激情を迎えるように、岩窟の中のすべての突角が哮《たけ》びの反響をあげた。彼の人は、立って居た。一本の木だった。だが、其姿が見えるほどの、はっきりした光線はなかった。明りに照し出されるほど、纏《まとま》った現《うつ》し身《み》をも、持たぬ彼の人であった。
唯、岩屋の中に矗立《しゅくりつ》した、立ち枯れの木に過ぎなかった。
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おれの名は、誰も伝えるものがない。おれすら忘れて居た。長く久しく、おれ自身にすら忘れられて居たのだ。可愛《いと》しいおれの名は、そうだ。語り伝える子があった筈だ。語り伝えさせる筈の語部も、出来て居ただろうに。――なぜか、おれの心は寂しい。空虚な感じが、しくしくと胸を刺すようだ。
――子代《こしろ》も、名代《なしろ》もない、おれにせられてしまったのだ。そうだ。其に違いない。この物足らぬ、大きな穴のあいた気持ちは、其で、するのだ。おれは、此世に居なかったと同前の人間になって、現《うつ》し身《み》の人間どもには、忘れ了《おお》されて居るのだ。憐みのないおっかさま。おまえさまは、おれの妻の、おれに殉死《ともじ》にするのを、見殺しになされた。おれの妻の生んだ粟津子《あわつこ》は、罪びとの子として、何処かへ連れて行かれた。野山のけだものの餌食《えじき》に、くれたのだろう。可愛そうな妻よ。哀なむすこ[#「むすこ」に傍点]よ。
だが、おれには、そんな事などは、何でもない。おれの名が伝らない。劫初《ごうしょ》から末代まで、此世に出ては消える、天《あめ》の下《した》の青人草《あおひとぐさ》と一列に、おれは、此世に、影も形も残さない草の葉になるのは、いやだ。どうあっても、不承知だ。
恵みのないおっかさま。お前さまにお縋《すが》りするにも、其おまえさますら、もうおいででない此世かも知れぬ。
くそ――外《そと》の世界が知りたい。世の中の様子が見たい。
だが、おれの耳は聞える。其なのに、目が見えぬ。この耳すら、世間の語を聞き別けなくなって居る。闇の中にばかり瞑《つぶ》って居たおれの目よ。も一度かっと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、現し世のあり
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