都は離れ、飛鳥の都の再栄えたその頃、あやまちもあやまち。日のみ子に弓引くたくみ、恐しや、企てをなされると言う噂が、立ちました。
高天原広野姫尊《たかまのはらひろぬひめのみこと》、おん怒りをお発しになりまして、とうとう池上の堤に引き出して、お討たせになりました。
其お方がお死にの際《きわ》に、深く深く思いこまれた一人のお人がおざりまする。耳面ノ刀自と申す、大織冠《たいしょくかん》のお娘御でおざります。前から深くお思いになって居た、と云うでもありません。唯、此|郎女《いらつめ》も、大津の宮離れの時に、都へ呼び返されて、寂しい暮しを続けて居られました。等しく大津の宮に愛着をお持ち遊した右の御方が、愈々《いよいよ》、磐余《いわれ》の池の草の上で、お命召されると言うことを聞いて、一目 見てなごり惜しみがしたくて、こらえられなくなりました。藤原から池上まで、おひろいでお出でになりました。小高い柴《しば》の一むらある中から、御様子を窺《うかご》うて帰ろうとなされました。其時ちらりと、かのお人の、最期に近いお目に止りました。其ひと目が、此世に残る執心となったのでおざりまする。
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もゝつたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや、雲隠りなむ
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この思いがけない心残りを、お詠みになった歌よ、と私ども当麻《たぎま》の語部の物語りには、伝えて居ります。
その耳面刀自と申すは、淡海公の妹君、郎女の祖父《おおじ》君|南家太政大臣《なんけだいじょうだいじん》には、叔母君にお当りになってでおざりまする。
人間の執心と言うものは、怖いものとはお思いなされぬかえ。
其亡き骸は、大和の国を守らせよ、と言う御諚《ごじょう》で、此山の上、河内から来る当麻路の脇にお埋《い》けになりました。其が何と、此世の悪心も何もかも、忘れ果てて清々《すがすが》しい心になりながら、唯そればかりの一念が、残って居る、と申します。藤原四流の中で、一番美しい郎女が、今におき、耳面刀自と、其|幽界《かくりよ》の目には、見えるらしいのでおざりまする。女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この当麻までお出でになったのでのうて、何でおざりましょう。
当麻路に墓を造りました当時《そのかみ》、石を搬《はこ》ぶ若い衆にのり移った霊《たま》が、あの長歌を謳《うと》うた、と申すのが伝え。
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当麻語部媼《たぎまのかたりのおむな》は、南家の郎女の脅える様を想像しながら、物語って居たのかも知れぬ。唯さえ、この深夜、場所も場所である。如何に止めどなくなるのが、「ひとり語り」の癖とは言え、語部の古婆《ふるばば》の心は、自身も思わぬ意地くね悪さを蔵しているものである。此が、神さびた職を寂しく守って居る者の優越感を、充すことにも、なるのであった。
大貴族の郎女は、人の語を疑うことは教えられて居なかった。それに、信じなければならぬもの、とせられて居た語部の物語りである。詞《ことば》の端々までも、真実を感じて、聴いて居る。
言うとおり、昔びとの宿執が、こうして自分を導いて来たことは、まことに違いないであろう。其にしても、ついしか[#「ついしか」に傍点]見ぬお姿――尊い御仏と申すような相好が、其お方とは思われぬ。春秋の彼岸中日、入り方の光り輝く雲の上に、まざまざと見たお姿。此|日本《やまと》の国の人とは思われぬ。だが、自分のまだ知らぬこの国の男子《おのこご》たちには、ああ言う方もあるのか知らぬ。金色の鬢《びん》、金色の髪の豊かに垂れかかる片肌は、白々と袒《ぬ》いで美しい肩。ふくよかなお顔は、鼻|隆《たか》く、眉秀で夢見るようにまみ[#「まみ」に傍点]を伏せて、右手は乳の辺に挙げ、脇の下に垂れた左手は、ふくよかな掌を見せて……ああ雲の上に朱の唇、匂いやかにほほ笑まれると見た……その俤《おもかげ》。
日のみ子さまの御側仕えのお人の中には、あの様な人もおいでになるものだろうか。我が家の父や、兄人《しょうと》たちも、世間の男たちとは、とりわけてお美しい、と女たちは噂するが、其すら似もつかぬ……。
尊い女性《にょしょう》は、下賤な人と、口をきかぬのが当時の世の掟《おきて》である。何よりも、其語は、下ざまには通じぬもの、と考えられていた。それでも、此古物語りをする姥《うば》には、貴族の語もわかるであろう。郎女は、恥じながら問いかけた。
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そこの人。ものを聞こう。此身の語が、聞きとれたら、答えしておくれ。
その飛鳥の宮の日のみ子さまに仕えた、と言うお方は、昔の罪びとらしいに、其が又何とした訣《わけ》で、姫の前に立ち現れては、神々《こうごう》しく見えるであろうぞ。
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此だけの語が言い淀《よど》み、淀みして言われて
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