後夷人の教へが久しく傳つて、今も行はれてゐる。長安の都にも、その教義をひろめる爲に、私に寺を建てる者があつて、盛んに招魂の法を行つて、右の夷人の姿を招きよせて、禮拜する。信じる風が次第に君子士人の間に擴つて流弊はかり難いものがある。とさう言ふ風のことが書いてあるのだがね。――ちよつと、空海和上が入唐したのが、大唐の貞元から元和へかけての間であつたから、西觀唐紀の出來て間のないことだ。
とにもかくにも、開山大師將來の日京卜のなごり[#「なごり」に傍点]らしく傳へるものは、此だけで御座います。
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律師は、知識において大刀うちの出來さうもない相手だと悟つた。それに、美しい詞――。美しい齒ぎれのすが/″\しい詞を發する清らかな口――。ふくよかな頬――。
山に育つて、青春を經佛堂の間で暮した山僧は、女を眺める心は、萎微してゐた。思ひがけない美しさを感じる目で、周圍の男たちを凝視してゐる時が多かつた。律師は、まのあたりにくつろいだ貴人の、まだ見たことのないゆたけさの何處をとつて見ても、美しさに歸せぬものゝないのに驚きはじめてゐた。
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ともかく招魂法を卜象だと考へて來たのだね――。二百五十年|以後《コノカタ》、――知識の充滿してゐる山に、さりとては、智惠の光りの屆かぬ隅もあるものだ。
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貴人の顏は、いよ/\冴えて見えた。智惠の光りと言ふのは、此だと律師には思はれた。御廟の中で見た大師のみ姿――其を問はれゝば、隱しをふせることの出來ないやうな氣がし出したのが、彼には恐しかつた。
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春の日はまだ、暮れるに間があらう。ぼつ/″\開山廟まで行きたくなつた。そこ[#「そこ」に傍点]に一つ案内を頼みたいが――。
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僧綱にしては、少し口數が多過ぎると噂せられた律師は、靜かな擧措に、僅かな詞をまじへるだけなのが、宿徳《シウトク》の老僧の外貌を加へた。
一山を輝すやうな賻物《オクリモノ》や祿《ロク》が、數多い房々に配られた。宮廷からのおぼしめしもあり、大臣の奇特な志を示すものもあつた。中に、日頃の生活の色彩の乏しさを思ひ起させるほどきらびやかな歡喜を促したものは、この木幡の右大臣の北の方から寄進せられたといふ唐衣に所屬する一そろひの女裝束であつた。勿論度々の先例もあることだし、一度も身につけない清淨な衣裝は、中堂の本尊に供養して、あと[#「あと」に傍点]を天野の社の姫神に獻るといふことになつた。多くの久住《クヂユウ》の宿徳僧《シウトクソウ》にとつては、唯一流れの美しい色の奔流として、槊木《ホコギ》にかけられてゐるばかりであるが、まだ心とゞろき易い若さを失はぬ高位の僧たちには、樣々な幻が、目や耳に寄つて來るのが、防げなかつた。まだ得度せぬ美しい稚兒や、喝食《カツジキ》を養うてゐる人たちは、心ひそかに目と目とを見合せて、不思議な語を了解しあふのもあつた。之を其等の性の定らぬやうな和やかな者の肌を掩はせて見たいといふ望みである。
翌けの日は、中堂大塔供養の當日である。護摩の煙の渦に咽せ返るやうな一日であつた。※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠律師は、其間大臣の家の子から出て、入山したと言つた俗縁でゞもあるかと思はれるほど、誠實に貴人に仕へてゐる。中堂の扉がすつかり、あけひろげられた。私闇《ワタシヤミ》の中に、烈々と燃え盛つてゐた修法の壇は、依然として、炎をあげてゐたが、夏近い明るい外光を受けた天井・柱・壁・床の新しい彩色が、一時に堂を明るくした。
折り重つて光りの輪を交す大塔――それを※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る附屬の建て物、朱と雄黄と緑青の虹がいぶり立つやうに四月に近い山の薄緑を凌ぐ明るさであつた。
その日は思ひの外に早く昏くなつた。「彌生の立ち昏れ」と山の人々は言ふ、さうした日が稀にはあつた。晴れ過ぎる程明るい空が、急に曇るともなく薄暗くなつて、そのまゝ夜になる。かう言ふ日は、宵も夜ふけも、かん/\響くほど空氣が冴えて感じられる。
今は眞夜中である。都では朧ろな夜の多い此頃を、此山では、冬の夜空のやうに乾いてゐた。生れてまだ記憶のない恐しい昨日の經驗――それを此目で、も一度見定めようとしてゐるのである。其に底の底まで青くふるひ上つた心が、今夜も亦驚くか――、彼は二代の若い天子に仕へて來た。思ふ存分怒りを表現なさる上《ウヘ》の御氣色《ミケシキ》に觸れて困つたことも、度々あつた。あんな凄さとも違つてゐる。地獄變相圖や、百鬼|夜行繪《ヤギヤウヱ》に出て來る鬼どもが、命に徹する畏怖を與へる、あれともかはつてゐる。
とにかくに、かう言ふ常の生活に思ひも及ばぬことがあらうとは思はれぬ。だが目前に、この目で見た。信じてゐる自分では
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