死者の書 續篇(草稿)
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)習《ナラ》はしから、
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)公家|繪《ヱ》かきの
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)下※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ゲラフ》たちを、
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もの/\しく
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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山々の櫻の散り盡した後に、大塔中堂の造立供養は行はれたのであつた。
それでも、春の旅と言へば、まづ櫻を思ふ習《ナラ》はしから、大臣は薄い望みを懸けてゐた。若し、高野や、吉野の奧の花見[#「花見」に「マヽ」の注記]られることのありさうな、靜かな心踊りを感じて居たのであつた。
廿七日――。山に著いて、まづ問うたのも、花のうへであつた。ことしはとり別け、早く過ぎて、もう十日前に、開山大師の御廟《ミメウ》から先にも、咲き殘つた梢はなかつた。
かう言ふ、僅かなことの答へにも、極度に遜《ヘ》り降つた語つきに、固い表情を、びくともさせる房主ではなかつた。卑下慢《ヒゲマン》とは、之を言ふのか、顏を見るから、相手を呑んでかゝる工夫をしてゐる。凡高い身分の人間と言ふのは、かう言ふものだと、たか[#「たか」に傍点]をくゝつて居る。其にしても、語の洗煉せられて、謙遜で、清潔なことは、どうだ。これで、發音に濁《タ》みた所さへなかつたら、都の公家詞《クゲコトバ》などは、とても及ばないだらう。この短い逗留の中に、謁見《エツケン》した一山の房主と言ふ房主は、皆この美しい詞《コトバ》で、大臣を驚した。其だけに、面從で、口煩い京《キヤウ》の實務官たちと、おなじで何處か違つた所のある、――氣の緩《ユル》せない氣持ちがした。
[#ここから1字下げ]
風流なことだ。櫻を惜しむの、春のなごりのと、文學にばかり凝つて、天下のことは、思つて見もしないのだらう。この大臣は――。
[#ここで字下げ終わり]
さう言ふ語を飜譯しながら、あの流暢な詞を、山鴉が囀つてゐるのである。
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自然の移りかはりを見ても、心を動してゐる暇《ヒマ》もございません。そんな明け暮れに、――世間を救ふ經文《キヤウモン》の學問すら出來んで暮して居ります。
[#ここで字下げ終わり]
こんなもの言ひが、人に恥ぢをかゝせる、と言ふことも考へないで言うてゐる。さうではなからう――。恥ぢをかゝせて――、恥しめられた者の持つ後味《アトアヂ》のわるさを思ひもしないで、言ふいたはりのなさが、やはり房主の生活のあさましさなのだ。
――大臣は、瞬間公家|繪《ヱ》かきの此頃かく、肖像畫を思ひ浮べてゐた。その繪の人物になつたやうなおほどかな氣分で、ものを言ひ出した。
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其でも、卿《ソコ》たちは羨しい暇を持つておいでだ。美しい稚兒法師に學問を爲込まれる。それから、一かどの學生《ガクシヤウ》に育てゝ、一生は手もとで見て行かれる。羨しいものだと、高野に來た誰も彼もが言ふが、――内典を研究する人たちには、さう言ふゆとりがあるから羨しいよ。博士よ進士《シンジ》よと言つても、皆|陋《サモ》しい者ばかりでね――。
[#ここで字下げ終わり]
大臣は、いやな下※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ゲラフ》たちを、二重に叩きつけるやうなもの(言ひ)をした。物體《モツタイ》らしくものを言ふ人たちを見ると、自分より教養の低いものたちから、無理やりに教育を強ひられてゐるやうな氣がして、堪《タマ》らなかつた。房主もいやだが、博士たちも小半刻も話してゐる間に、世の中があさましいものになつたやうな、どんよりとしたものにしか感じられなくなるのだつた。房主たちをおし臥せるやうな氣持ちで、二重底のある語を語つてゐると思うてゐると、驅り立てられた情熱が、當代の學者たちを打ち臥せるやうな語氣を烈しく持つて來てゐた。
現に今度の高野參詣も、出掛けの前夜になつて、もの/\しく、異見を言つて來た俊西入道があつた。儀禮にかうある、帝堯篇には、あゝ書かれてゐる、――そんなことが、天文の急變ではあるまいし、出立ちを三刻後《ミトキアト》に控へて、言ふやうでは、手ぬかりも甚しい。其も易や、陰陽の方で、言ひ出すのなら、まだしも意味がある。たゞ其が禮法でないの、先例がどうのと言ひ出すのでは、話にもならぬ。
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やまには宿曜《シユクエウ》經を見る大徳《ダイトク》が居るだらうな。
お見せになりますか。當山では、經の片端でも讀みはじめたものは、なぐさみ半分に、あれは致しま
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