ですから、山は樂過ぎます。却て昨日晝半日の平地《ヒラチ》の旅にはくたびれました樣なことで御座います。
律師、その山から貰つて來たせがれ[#「せがれ」に傍点]は、何といふのだつたね。
穴師丸。
なに穴師丸。妙な名だね。
※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠は、これで引きとります。ます/\お榮えになりますやう。
※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠、山はよかつた――。日京卜を傳へたり、穴師を育《ハグク》んだり……又登山するをりもあらうよ。
その節を待ち望《マウ》けまする。
[#ここで字下げ終わり]
※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠阿闍梨は、山の僧綱の志を代表して、麓の學文路《カムロ》村まで、大臣の乘り物を見送らうと言ふつもりで、山を降つた。だが紀の川を見おろす處まで來ると、何かなごりの惜しい氣持ちが湧いて來た。せめて大和境の眞土の關まで、お伴をしようと考へるやうになつた。國境の阪の辻まで來ると、何か牽くものゝあるやうな氣持ちが壓へられなくなつて、當麻寺まで送り屆けよう。山の末寺でもあり、知己の僧たちにも逢ひたくなつたのであつた。
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では、律師を送つて、總門のあたりまで、おれも出て見よう。
やめに遊ばされませ。勿體なすぎます。
内の上扱ひは、よしたがよい。おれは、外の公家たちのやうなことは、喜ばないぞ。
[#ここで字下げ終わり]
内の上と謂はれた宮廷の主上は、出入りにも、御自身の御足を以ておひろひなされぬといふ噂は、世の中にひろまつてゐた空言であつた。併し、その空言を凡實現するのは、大貴族の人たちだつた。近代になつて、宮廷に行はれてゐる事で、大公家の家で行はれてゐないことなど、凡一つもなかつた。時々畏れ多いなど言ふ考へを持つ人もあるが、其は宮中勤めの仲間をはづれて、稍老いはじめてから、公家女房に立ちまじるやうになつた古御達だけであつた。内の上に限つてあることは、時々内侍所にお仕へになる日があることである。殊に冬に入つてからは、其が多かつた。隙間風の激しい板敷きの上に半日以上、すわり暮しておいでの時もあり、夜中から曉方まで、冷えあがるやうな夜、三度までお湯をお使ひあそばすこともあつた。
神代以來の爲來たりだとはいへ、内侍所に仕へる女たちも、しみ/″\つらく感じてゐる。其をもつと烈しい度合ひでなさるのが、内の上の、神樣に
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