あゝやつと平生のおれが還つて來た。昔からこの國の第一人者といはれた人は、「不可思議」に心は※[#「てへん+勾」、拘の俗字、第3水準1−84−72]へられなかつた。「不可思議」のない空虚な天地に一人生きてゐる――寂しさを、おれが感じるだけでも、昔の人たちとは違つてゐるのでないか――さう氣が咎めるほどなのだ。
……をゝさうだ。すつかり忘れるところだつた。山から貰ひうけて來た楞善院の喝食は、こゝに來てゐるのだらうか。
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來《コ》うよ。こうよ。
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すつかり明るくなつてゐる妻戸の外に、衣摺れの音が起つた。
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召しますか。
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美しい聲だ。おれの殿には若いをのこども、若女房が澤山ゐるが、此ほど爽やかな聲を聞いたことがない。あれだな――、敏《サト》いらしい者と感じたのだが、やつぱり――思ふ通りの若者だつたな――。それに、あの嫻雅なそぶりが、山のせゐ[#「せゐ」に傍点]で、飛びぬけて美しく思はれたのでなければ、――今度の旅の第一の獲物と考へてよいだらう。さう幸福な感じが漲つて來るのを覺えた。
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寺の者どもに聞け。ようべ、この山里には、何事もなかつたかとの――。
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次いで、すゞやかな聲が、それに受けこたへて、物音も立てずに、板間をわたつて行つた。
幾日か前からあるべき筈の知らせもなく、あつたと思ふと二刻も立たぬ間に、大臣の乘り物の輿が、本道から入りこんだ村里へ抂げられた。當麻の村に、俄かに花が降り亂れて來た樣に、光り充ちた騷々しさが湧き起つた。
それも昨日、今日は都の貴人をやどす村里とも覺えぬしづけさである。
のどかな卯月の日がさして、砂を敷いた房の庭は、都らしく輝いてゐる。岡の前《サキ》が、庭にのり出て、まだ早い緑をひろげてゐる。山の小鳥が揃うて、何か啄んでゐるのは、小さな池の汀に咲き出した草の花があるのである。
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召しもなくあがりました。※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠に勤まるやうな御用ならばと存じまして……。
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をゝさうだつた、と言ふ輕い反省が起つた。
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あゝ律師か。ひどい辛勞だつたな。山からこゝまで、常ならば、二日|道《ヂ》だらうに。
いえ、幼いから馴れた山育ち
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