ない。だが、自分で經驗したものを、世間の平俗な考へが、容れないからと言つて、其を此方の思ひ違ひときめるのは、恥しい凡下の心だ。變つて居れば變つたでよいではないか。おれは新しい現實を此目で見て、人間の知つた世界をひろげるのだ。
――かう考へ乍ら、歩みを移してゐる。兩方は深い叢で、卒塔婆の散亂する塚原である。上は繁りあうた常盤木の木立ちで、道が白んで見える仄暗さだ。沙煙――道の上五尺ほどの高さ、むらむらと沙が捲き立つて行くやうにも見える、淡い霧柱――大臣は、目を疑うた。立ち止つて目を凝して見る。目の紛れではない。白くほのかに、凡、人の背《セ》たけほど、移つて行く煙――二間ほど隔てゝ動いて行く影――。
明るくなつた。水の響きが聞えて來た。
鶯が鳴いてゐる。山では聞かなかつた。再、拙い夏聲《ナツゴヱ》にかはらうとしてゐるのだ。水面を叩く高い水音が、次いで聞えて來た。蔀戸《シトミド》はおりて居て、枕邊は一面の闇がたけ高く聳えてゐる。其を感じたのは、東側の奧の妻戸が、一枚送つてあつて、もう早い朝の來てゐることを示してゐたから、却て南面《ミナミオモテ》の西側近く寢てゐると、やつと自身の手の動くのが、見える位であつた。
村里へ出てゐるのだといふ心が、ひらりと、大臣の記憶がのり出して來る。をゝさうだ。昨日――いや、をとゝひ高野を降つた。あしこに居つた數日の印象があまり、はつきりして居て却て昨日一日のことは拭ひとつたやうな靜けさだつた。
今の今まで夢ともなく、聯想ともなく、はつきりと見えてゐたのは、其はをとゝひの夜、あつたことだ。山の上の小川―玉川―にけぶるやうにうつゝて居た月の光りに、五六間先を行く者の姿を、朧ろながら、確かに見た。「※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]惠か」と口まで出た詞を呑んでしまつたのは、瞬間、其姿があんまり生氣のない謂はゞ陰の樣な、それでゐて、ずぬけてせい[#「せい」に傍点]の高いものだつたから――だ。
だがさう思つた時、その姿はどこにもなかつた。今見た一つゞきの空想も、唯それだけだ。おれは、其影のやうなものを、つきとめたいと思うてゐる。其で、眠りの中に、あれを見たのだ。――他愛もない幻。そんなものに囚れて考へるおれではなかつた筈だ。――いや併し、あの前日のことがなかつたら、こんなにとりとめもないやうな一つ事を考へるわけはない。――あの日、まだ黄昏にも
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