]を圧するばかり、篠竹が繁つて居た。沢山の葉筋《はすぢ》が、日をすかして一時にきら/\と光つて見えた。
郎女は、暫らく幾本とも知れぬその光りの筋の、閃き過ぎたのを、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の裏に見つめて居た。をとゝひの日の入り方、山の端に見た輝きを思はずには居られなかつたからである。
また一時《いつとき》、廬堂《いほりだう》を廻つて音するものもなかつた。日は段々|闌《た》けて、小昼《こびる》の温みが、ほの暗い郎女の居処にも、ほと/\と感じられて来た。
寺の奴《やつこ》が三四人先に立つて、僧綱が五六人、其に、所化たちの多くとり捲いた一群れが、廬へ来た。
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これが、古《ふる》山田寺だと申します。
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勿体ぶつた、しわがれ声の一人が言つた。
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そんな事は、どうでも――。まづ郎女さまを――。
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噛みつくやうにあせつて居る家長老《いへおとな》額田部子古《ぬかたべのこふる》のがなり声がした。
同時に、表戸は引き剥がされ、其に隣つた幾つかの竪薦《たちごも》をひきちぎる音がした。
づうと這入つて来た身狭《むさ》ノ乳母《おも》は、郎女の前に居たけを聳かして掩ひになつた。外光の直射を防ぐ為と、一つは、男たちの前殊には、庶民の目に貴人《あてびと》の姿を暴《さら》すまいとするのであらう。
伴に立つて来た家人の一人が、大きな木の又枝《またぶり》をへし折つて、之に旅用意の巻帛《まきぎぬ》を幾垂れか結び下げて持つて来た。其を牀《ゆか》につきさして、即座の竪帷《たつばり》―几帳―は調つた。乳母《おも》は、其前に座を占めて、何時までも動かなかつた。
七
怒りの滝のやうになつた額田部ノ子古は、奈良に還つて、公に訴へると言ひ出した。大和ノ国にも断つて、寺の奴原を逐ひ退けて貰ふとまで、いきまいた。紫微内相を頭《かしら》に、横佩家に深い筋合ひのある貴族たちの名をあげて、其方々からも、何分の御吟味を願はずには置かぬと、凄い顔をして住侶たちを脅かした。
郎女は貴族の姫で入らせられようが、寺の浄域を穢し、結界まで破られたからは、直にお還りになるやうには計はれない。寺の四至の境に在る所で、長期の物忌みして、贖《あがな》ひはして貰はねばならぬと、寺方も言ひ分を挽つこめなかつた。理分にも非分にも、これまで南家の権勢でつき通して来た家長老《おとな》等にも、寺方の扱ひと言ふものゝ世間どほりにはいかぬ事が訣《わか》つて居た。乳母《おも》に相談かけても、一生さうした世事に与つた事のない此人は、そんな問題には、詮《かひ》ない唯の女性《によしやう》に過ぎなかつた。先刻《さつき》からまだ立ち去らずに居た当麻語部の嫗が、口を出した。
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其は、寺方に理分が御座りまする。お随ひなされねばならぬ
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と言ひ出した。其を聞くと、身狭の乳母は、激しく田舎語部の老女を叱つた。男たちに、畳を持ちあげ、柱に縋る古婆を掴み出させた。さうした威高さは、さすがに自ら備つてゐた。
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何事も、この身などの考へではきめられぬ。帥《そち》の殿《との》に承らうにと、国遠し。まづ姑らく、郎女様のお心による外はないものと思ひまする。
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其より外には、方もつかない。奈良の御館の人々と言つても、多くは此二人の意見を聞いてする人々である。よい思案を考へつきさうなものも居ない。太宰府へは直様使を立てることにして、とにもかくにも、当座は、姫の考へに任せようと言ふことになつた。
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郎女様。如何お考へ遊ばしまする。おして奈良へ還れぬでも御座りませぬ。尤、寺方でも侯人《さぶらひびと》や奴隷《やつこ》の人数を揃へて妨げませう。併し、御館《みたち》のお勢ひには、何程の事でも御座りませぬ。では御座りまするが、お前さまのお考を承らずには、何とも計らはれませぬ。御思案お洩し遊ばされ。
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謂はゞ難題である。あて人の娘御に、此返答の出来よう筈はない。乳母《おも》も、子古《こふる》も、凡は無駄な伺ひだと思つては居た。ところが、郎女の返事はこだまかへしの様に、躊躇《ためら》ふことなしにあつた。其上此ほど、はつきりとした答へはないと思はれた。其がすべての人の不満を圧倒した。
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姫の咎は、姫が贖《あがな》ふ。此寺、此二上山の下に居て、身の償《つぐな》ひ、心の償ひしたと姫が得心するまでは、還るものとは思《おも》やるな。
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郎女の声、詞を聞かぬ日はない身狭《むさ》の乳母《おも》ではあつた。だが、つひしか[#「つひしか」に傍点]此ほどに頭の髄まで沁み入るやうな、凜とした語を聞いたことのない乳母《おも》だつた。
寺方の言ひ分に譲るなど言ふ問題は、小さい事であつた。此爽やかな育ての君の判断力と、惑ひなき詞に感じてしまつた。たゞ、涙。かうまで賢《さか》しい魂を思ふと、頬に伝ふものを拭ふことも出来なかつた。子古にも、郎女の詞を伝達した。さうして、自分のまだ曾てなかつた感激を、力深くつけ添へて聞かした。
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ともあれ此上は、太宰府へ。
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かう言つた自分の語に気つけられたやうに、子古は思ひ出した。今日か明日、新羅問罪のうち合せの為、難波を離れて、筑前へ下る官使の一行があつたのである。此中に居る知り人に、今度の事の顛末の報告から、其決断を乞ふ次第を書き綴つて、托しようと思ひついた。
北へ廻つて、大阪越えから河内へ出て、難波まで、馬の叶ふ処は馬で行かうと決心した。
万法蔵院に唯一つ飼つて居た馬の借用を申し入れると、此は快く聴き入れてくれた。子古は、今日の日暮れまでには、難波まで行つて還つて来ると、威勢のよい語を、歯の隙いた口に叫びながら、郎女の竪帷《たつばり》の前に匍伏した。
子古の発つた後は、又のどかな春の日に戻つて、悠々《うら/\》と照り暮す山々を見せませうと、乳母《おも》が言ひ出した。木立、山陰から盗み見する者のないやうに、家人らを一町二町先まで見張りに出して、郎女を外に誘ひ出した。
暴風雨《あらし》の夜、添上、広瀬、葛城の野山をかち[#「かち」に傍点]あるきした姫ではない。乳母と今一人、若人の肩に手を置きながら、歩み出た。
日の光りは霞みもせず、陽炎も立たず、唯おどんで見えた。昨日眺めた野も、斜になつた日を受けて、物の影が細長く靡いて居た。青垣の様にとり捲く山々も、愈遠く裾を曳くやうに見える。
早い菫―げんげ―が、もうちらほら咲いてゐる。遠く見ると、その紫の色が一続きに見えて、薄い雲がおりて居るやうに思はれる。足もとに一本、おなじ花の咲いてゐるのを見つけた郎女は、膝を叢について、ぢつと眺め入つた。
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これはえ――
すみれと申すとのことで御座ります。
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かう言ふ風に、物を知らせるのが、あて人に仕へる人たちの為来りになつて居た。
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蓮《はちす》の花に似てゐながら、もつと細やかな、――絵にある仏の花を見るやうな――
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ひとり言しながら、ぢつと見てゐるうちに、花は広い萼《うてな》の上に乗つた仏の前の大きな花になつて来る。其がまた、ふつと目の前のさゝやかな花に戻る。
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夕風が冷《ひや》ついて参ります。内へ――。
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乳母が言つた。見渡す山は、皆影濃くあざやかに見えて来た。
一番近く谷を隔て、端山の林や崖《なぎ》の幾重も重つた上に、二上の男嶽《をのかみ》の頂が、赤い日に染つて立つてゐる。
今日は、あまりに静かな夕《ゆふべ》である。山ものどかに夕雲の中に這入つて行かうとしてゐる。
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まうし。まう外に居る時では御座りません。
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八
「朝目よく」うるはしい兆《しる》しを見た昨日は、郎女にとつて、知らぬ経験を、後から後から展いて行つた。たゞ人《びと》の考へから言へば、苦しい現実のひき続きではあつたのだが、姫にとつては、心驚く事ばかりであつた。
一つ/\変つた事に逢ふ度に、姫は「何も知らぬ身であつた」と心の底で声を上げた。さうして、その事毎に挨拶をしてはやり過したい気が一ぱいであつた。今日も其続きを、くはしく見た。なごり惜しく過ぎ行く現《うつ》し世のさま/″\。郎女は、今目を閉ぢて、心に一つ/\収めこまうとして居る。ほのかに通り行き、将《はた》著しくはためき過ぎたもの――。
宵闇の深くならぬ間に、廬《いほり》のまはりは、すつかり手入れがせられた。燈台も大きなのを、寺から借りて来て、煌々と油|火《び》が燃えて居る。明王像も、女人のお出での場処にはすさまじいと云ふ者があつて、どこかへ搬んで行かれた。其よりも、郎女の為には帳台が、設備《しつら》はれてゐた安らかさ。夜も、今宵は暖かであつた。帷帳《とばり》を周らした中は、ほの暗かつた。其でも、山の鬼神《もの》、野の魍魎《もの》を避ける為の燈の渦が、ぼうと梁に張り渡した頂板《つしいた》に揺らめいて居るのが頼もしい気を深めた。帳台のまはりには、乳母や若人が寝たらしい。もう其も一時も前の事で、皆すや/\と息の音を立てゝ居る。姫の心は、今は軽かつた。
たとへば、俤に見たお人には逢はなくとも、その俤を見た山の麓に来て、かう安らかに身を横へて居る。
燈台の明りは、郎女の額の上に、高く朧ろに見える光りの輪を作つて居た。月のやうに円くて、幾つも上へ/\と月輪《ぐわちりん》が重つてゐる如くも見えた。其が隙間風の為であらう。時々薄れて行くと、一つの月になつた。ぽつと明り立つと、幾重にも隈の畳まつた大きな円かな光明になる。
幸福に充ちて、忘れて居た姫の耳に、今はじめて谷の響きが聞え出した。更けた夜空には、此頃やつと、遅い月が出たことであらう。
物の音。――つた/\と来て、ふうと佇《た》ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に、激《たぎ》ち降る谷のとよみ。
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つた つた つた
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又ひたと止《や》む。
この狭い廬の中を、何時まで歩く、足音だらう。
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つた
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郎女は刹那、思ひ出して牀の中で身を固くした。次にわぢ/\[#「わぢ/\」に傍点]と戦《をのゝ》きが出て来た。
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天若御子《あめわかみこ》――。
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ようべ、当麻語部嫗《たぎまかたりのおみな》の聞かした物語。あゝ其お方の来て窺ふ夜なのか。
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――青馬の 耳面刀自《みゝものとじ》。
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刀自もがも。女弟《おと》もがも。
その子の はらからの子の
処女子の 一人
一人だに わが配偶《つま》に来よ。
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まことに畏しかつたことを覚えない郎女にしては、初めてまざ/″\と圧へられるやうな畏《こは》さを知つた。あゝあの歌が、胸に生《い》き蘇《かへ》つて来る。忘れたい歌の文句が、はつきりと意味を持つて、姫の唱へぬ口の詞から、胸にとほつて響く。すさまじい動悸。
帷帳《とばり》が一度、風を含んだ様に皺だむ。
ついと[#「ついと」に傍点]、凍る様な冷気――。
郎女は目を瞑つた。だが――瞬間※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]の間から映《うつ》つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳《とばり》を掴んだ片手の白く光る指。
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あな たふと 阿弥陀仏。なも阿弥陀仏。
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何の反省もなく、唇を洩れた詞。この時、姫の心は急に寛ぎを感じた。さつと――汗。全身に流れる冷いものを覚えた。
畏《こは》い感情を持つたことのないあて人の姫は、直《すぐ》に動顛した心をとり直すことが出来た。
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なも あみだぶつ
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今《も》一度口
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