に出して見た。をとゝひまで手写しとほした称讃浄土摂受経《しようさんじやうどせふじゆきやう》の文《もん》である。郎女は、昨日までは一度も、寺道場を覗いたこともなかつた。父君は、家の内に道場を構へて居たが、簾越しにも聴|聞《もん》は許されなかつた。御経《おんきやう》の文《もん》は手写しても、固より意趣は訣らなかつた。だが、かつ/″\処々には、気持ちの汲みとれる所があつたのであらう。併しまさか、こんな時、突嗟に口に上らうとは思うて居なかつた。
白い骨、譬へば玉の様に並んだ骨の指、其が何時までも目に残つて居た。帷帳《とばり》は元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指は、細々と其に絡んでゐるやうな気がする。
悲しいとも懐しいとも知れぬ心に、深く郎女は沈んで行つた。山の端に立つた俤びとは、白々とした掌をあげて、姫をさし招いたと覚えた。だが今、近々と見る、其手は、海の渚の白玉のやうに、寂しく目にはうつる。

長い渚を歩いて居る。郎女の髪は左から右から吹く風に、あちらへ靡き、こちらへ乱れする。浪はま足もとに寄せて居る。渚と思うたのは、海の中道《なかみち》である。浪は両方から打つて居る。どこまでも/\、海の道は続く。郎女の足は砂を踏んでゐる。その砂すらも、段々水に掩はれて来る。
砂を踏む踏むと思うて居る中に、ふと其が白々とした照る玉だと気がつく。姫は身を屈《こゞ》めて、白玉を拾ふ。拾うても/\、玉は皆|掌《たなそこ》に置くと、粉の如く砕けて、吹きつける風に散る。其でも、玉を拾ひ続ける。玉は水隠《みがく》れて見えぬ様になつて行く。姫は悲しさに、もろ手を以て掬《すく》はうとする。掬《むす》んでも/\水のやうに、手股《たなまた》から流れ去る白玉――。玉が再び砂の上に並んで見える。忙《あわたゞ》しく拾はうとする姫の俯《うつむ》いた背を越して、流れる浪が泡立つてとほる。
姫は――やつと白玉を取り持つた。大きな輝く玉。さう思うた刹那、郎女の身は大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく裳《も》もない。抱き持つた白玉と一つに、照り充ちた現《うつ》し身。
ずん/\とさがつて行く。水底《みなぞこ》に水漬《みづ》く白玉となつた郎女の身は、やがて又|一幹《ひともと》の白い珊瑚の樹《き》である。脚を根とし、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、もう髪ではなく、藻であつた。藻が深海の底に浪のまゝに、揺れて居る。やがて、水底にさし入る月の光り――。ほつと息をついた。まるで潜《かづ》きする処女が二十尋《はたひろ》、三十尋《みそひろ》の水《みな》底から浮び上つて、つく様に深い息の音で、自身明らかに目が覚めた。
あゝ夢だつた。当麻まで来た夜道の記憶はまざ/″\と残つて居るが、こんな苦しさは覚えなかつた。だがやつぱり、をとゝひの道の続きを辿つて居るのではなからうかと言ふ気がする。
水の面からさし入る月の光り、と思うた時に、ずん/\海面に浮き出て行く。さうして、悉く痕形もない夢だつた。唯、姫の仰ぎ寝る頂板《つしいた》に、あゝ水にさし入つた月。そこに以前のまゝに、幾つも暈《かさ》の畳まつた月輪の形が揺めいて居る。
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なも、阿弥陀仏、
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再、口に出た。光りの暈は、今は愈明りを増して、輪と輪との境の隈々しい処までも見え出した。黒ずんだり、薄暗く見えたりした隈が、次第に凝つて、明るい光明の中に、胸、肩、頭、髪、はつきりと形を現《げん》じた。白々と袒《ぬ》いだ美しい肌、浄く伏せたまみが、郎女の寝姿を見おろして居る。乳のあたりと膝元とにある手――その指《および》、白玉の指《および》。
姫は、起き直つた。だが、天井の光りの輪は、元のまゝに、仄かに事もなく揺れて居た。


       九

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貴人《うまびと》はうま人どち、やつこは奴隷《やつこ》どちと言ふからなう――。
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何時見ても紫微内相は、微塵《みじん》曇りのない円《まど》かな相好《さうがう》である。其にふるまひのおほどかなこと、若くから氏《うぢ》の上《かみ》で、数十家の一族や、日本国中数千の氏人から立てられて来た家持《やかもち》も、静かな威に圧せられるやうな気がして来る。
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言はしておくがよい。奴隷《やつこ》たちはとやかくと、口さがないのが、其為事よ。此身とお身とは、おなじ貴人《うまびと》ぢや。おのづから話も合はうと言ふもの。此身が段々なり上《のぼ》ると、うま人までが、おのづとやつこ[#「やつこ」に傍点]心になり居つて、卑屈になる。
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家持は、此が多聞天かと、心に問ひかけて居た。だがどうもさうは思はれぬ。同じ、かたどつて作るなら、とつい[#「つい」に傍点]想像が浮んで来た。八年前、越中国から帰つた当座の世の中の豊かな騒ぎが思ひ出された。あれからすぐ、大仏|開眼《かいげん》供養が行はれたのであつた。其時、近々と仰ぎ奉つた尊容三十二|種好《しゆがう》具足したと謂はれる其相好が、誰やらに似てゐると感じた。其がどうしても思ひ浮ばずにしまつた。その時の連想が、今ぴつたり的にあてはまつて来たのである。
かうして対ひあつて居る仲麻呂の顔なり、姿なりが、其まゝあの廬遮那《るさな》ほとけの俤だと言つて、誰が否まう。
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お身も少し咄したら、えゝではないか。官位《かうぶり》はかうぶり。昔ながらの氏は氏――。なあ、さう思ふだろう。紫微中台と兵部省と位づけするのは、うき世の事よ。家《うち》に居れば、やはり神代以来《かみよいらい》の氏の上《かみ》づきあひをしようよ――。
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新しい唐の制度の模倣ばかりして、漢《もろこし》の才《さえ》がやまと心[#「やまと心」に傍点]に入り替つたと謂はれて居る此人が、こんな嬉しいことを言ふ。家持は感謝したい気がした。理会者、同感者を思ひがけない処に見つけ出した嬉しさだつたのである。
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お身は、宋玉や、登徒子の書いた物を大分持つて居ると言ふが、太宰府へ行つた時に手に入れたのぢやな。あんな若い年で、わせ[#「わせ」に傍点]だつたんだなう。お身は――。お身の家では古麻呂《こまろ》、身の氏に近い者では奈良麻呂、あれらは漢魏はおろか今の唐の小説なども、ふり向きもせんから、咄にはならぬて。
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兵郡大輔は、やつと話のつきほを捉へた。
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お身さまの話ぢやが、わしは賦の類には飽きました。どうも、あれが、この四十面さげてもまだ、涙もろい詩や歌の出て来る元になつて居る――さうつく/″\思ひますので。ところで近頃は方《かた》を換へて、張文成を拾ひ読みすることにしました。あの方が、なんぼか――。
大きに、其は、身も賛成ぢや。ぢやが、お身がこの年になつても、まだ二十《はたち》代の若い心や瑞々しい顔を持つて居るのは宋玉のおかげぢやぞや。まだなか/\隠れては歩き居ると人の噂ぢやが、嘘ぢやない。身が保証する。おれなどは張文成ばかり古くから読み過ぎて、早く精気が尽きてしまうた心持ちがする。――ぢやが全く、文成はえゝなう。漢土《もろこし》びとぢやとは言へ、心はまるでやまとのものと一つと思ふが、お身は諾《うべな》ふかね。
文成に限る事ではおざらぬが、あちらの物は読んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へも、身は持つことになつた――そんな空恐しい気さへすることがあります。お身さまにも、そんな経験《おぼえ》が、おありでせう。
大ありおほ有り、毎日々々、其ぢや。しまひにどうなるのぢや。こんなに智慧づいてはと思はれてならぬことが――ぢやが、女子《をみなご》だけにはまづ当分、女部屋のほの暗い中で、こんな智慧づかぬのどかな心で居さしたいものぢや。第一其が、男の為ぢや。
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家持は、此了解に富んだ貴人の語に、何でも言つてよい、青年のやうな気が湧いて来た。
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さやう/\。智慧を持ち初めては女部屋には、ぢつとして居ませぬな。第一|横佩墻内《よこはきかきつ》の――
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いけないことを言つたと思つた。同時に此|臆《おく》れた気の出るのが、自分を卑《ひく》くし、大伴氏を昔の位置から自ら蹶落す心なのだと感じた。
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好《えゝ》、好《えゝ》。遠慮はやめやめ。氏の上《かみ》づきあひぢやもん。ほい又出た。おれはまだ藤氏の氏上に任ぜられた訣ぢやなかつたつけな。
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瞬間暗い顔をしたが、直にさつと眉の間から輝きが出た。
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身の女姪《めひ》の姫が神隠しにあうた話か。お身は、あの謎見たいないきさつを、さう解《と》るかね。ふん。いやおもしろい。女姪の姫も定めて喜ぶぢやらう。実は、これまで内々小あたりにあたつて見たと言ふ口かね、お身も。
大きに。
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今度は軽い心持ちが、大胆に仲麻呂の話を受けとめた。
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お身さまが経験《ためし》ずみぢやで、其で郎女の才高《さえだか》さと、男|択《えら》びすることが訣りますな――。
此は、額《ひたひ》ざまに切りつけられた――。免せ/\と言ふところぢやが――、あれはの、生れだちから違ふものな。藤原の氏姫ぢやからの。枚岡《ひらをか》の斎《いつ》き姫にあがる宿世《すくせ》を持つて生まれた者ゆゑ、人間の男は、弾く、弾く、弾きとばす。近よるまいぞよ、はゝはゝゝ。
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内相は、笑ひをぴたりと止めて、家持の顔を見ながら、きまじめな表情になつた。
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ぢやがどうも、お聴き及びのことゝ思ふが、家出の前まで、阿弥陀経の千部写経をして居たと言ふし、楽毅論から、兄の殿の書いた元興寺縁起も、其前に手習したらしいし、まだ/\孝経なども、習うたと見えるし、なか/\の女博士《をなごはかせ》での。楚辞や小説にうき身をやつす身や、お身は近よれぬはなう。――どうして其だけの女子《をみなご》が、神隠しなどに逢はうかい。
第一、場処が当麻で見つかつたと言ひますからの――。
併し其は、藤原に全く縁のない処でもない。天[#(ノ)]二上の寿詞《よごと》もある処だが……。斎《いつ》き姫《ひめ》もいや、人の妻と呼ばれるのもいや――で、尼になる気を起したのでないかと思ひ当ると、もう不安で不安でなう。のどかな気持ちばかりでも居られぬは――。
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仲麻呂の眉は集つて来て、皺一つよらない美しい、この中老の貴人《あてびと》の顔も、思ひなしくすんで見えた。
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何しろ、嫋女《ひわやめ》は、国の宝ぢやでなう。出来ることなら、人の物にはせず、神の物にしたいところよ。――ところが、人間の高望《たかのぞ》みは、さうばかりも辛抱しては居りはせぬがい――。何せ、むざ/″\尼寺へやる訣にいかぬ。
でもねえ。一人出家すれば、と云ふ詞が、この頃頻りに説かれるで……。
九族が天に生じて、何になるといふのぢや。実は何百人かゝつても作り出せるものではない。どだい[#「どだい」に傍点]兄公殿《あにきどの》が、少し仏|凝《ご》りが過ぎるでなう――。自然|内《うち》うらまで、そんな気風がしみこむやうになつたかも知れぬぞ。時に、お身のみ館の郎女も、そんな育てはしてあるまいな。其では久須麻呂が泣きを見るからねえ。
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人の悪いからかひ笑みを浮べて、話を無理にでも脇に釣り出さうとするのは、考へるのも切ないことが察せられる。
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兄公は氏上に、身は氏助《うぢのすけ》と言ふ訣でゐるが、肝腎斎き姫で枚岡に居させられる叔母御は、もうよい年ぢや。去年春日祭りに上られた姿を見て、神《かん》さびたものよと思うたよ。今《も》一代此方から進ぜないなら、斎き姫になる娘の多い北家の方が、すぐに取つて替つて氏上に据るは。
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兵部大輔にとつても、此だけは他事《ひとごと》ではなかつた。おなじ
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