大伴幾流の中から、四代続いて氏[#(ノ)]上職を持ち堪《こた》へたのも、第一は宮廷の思召しもあるが世の中のよせ[#「よせ」に傍点]が重かつたからだ。其には、一番大事な条件として、美しい斎き姫が、此家に出て後を途切らさなかつたからである。大伴の家のは、表向き壻どりさへして居ねば、子があつても斎き姫は勤まると言ふ定めであつた。今の阪[#(ノ)]上郎女は、二人の女子《をみなご》を持つて、やはり斎き姫である。此はうつかり出来ない。此方も藤原同様、叔母御が斎姫《いつき》で、まだそんな年でないと思うてゐるが、又どんなことで、他流の氏姫が後を襲ふことにならぬとも限らぬ。大伴|佐伯《さへき》の数知れぬ人々、民々が外の大伴へ頭をさげるやうなことになつてはならぬ。
かう考へて来た家持の心の動揺を思ひもしない風で、
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こんな話は、よその氏[#(ノ)]上に言ふべきことではないが、兄公殿《あにきどの》があゝして、此先何年、太宰府に居るやら知れぬし、氏の祭りは、枚岡・春日と二処に二度づゝ、其外|週《まは》り年には、時々鹿島・香取の吾妻路のはてにある本社の祭りまで、此方で勤めねばならぬ。実際よそほかの氏[#(ノ)]上よりも、此方《こちら》の氏[#(ノ)]助ははたらいてゐるのだが、だから、自分で、氏[#(ノ)]上の気持ちになつたりする。――もう一層なつてしまふか。お身はどう思ふ。答へる訣にも行くまい。氏[#(ノ)]上に押し直らうとしたところで、今の身の考へ一つを抂げさせるものはない。上様方に於かせられて、お叱りのお語を下しおかれない限りは……。
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京中で、此恵美屋敷ほど庭を嗜《この》んだ家はないと言ふ。門は左京二条三坊に、北に向つて開いて居るが、主人家族の住ひは南を広く空《あ》けて広々とした山斎《やま》が作つてある。其に入りこみの多い池を周らし、池の中の島も、飛鳥[#(ノ)]宮風に造られた。東の中《なか》み門《かど》、西の中《なか》み門《かど》が備つて居る。どうかすると、庭と言ふより寛々《くわん/\》とした空き地の広くおありになる宮廷よりは、もつと手入れが届いて居さうな気がする。
庭を立派にしたうま[#「うま」に傍点]人たちの末々の事が、兵部大輔の胸に来た。瞬間憂鬱な気持ちがかゝつて来て、前にゐる紫微内相の顔を見るのが気の毒な様に思はれた。
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案じるなよ。庭が行き届き過ぎて居ると思うてるのだらう。そんなことはないさ。庭はよくても、亡びた人ばかりはないさ。淡海公の御館は、どの家でも引き継がずに荒してはあるが、あの立派さは、それ[#「それ」に傍点]あの山部の何とか言つた地下《ぢげ》の召《め》し人《びと》の歌よみが、「昔見し池の堤は年深み……」と言つた位だが、其後は、これ[#「これ」に傍点]此様に四流にも岐れて栄えてゐる。もつとあるよ――。何、庭などによるものではない。
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恃《たの》む所の深い此あて人は、庭の風景の目立つた個処々々を指摘しながら、其拠る所を日本漢土に渉つて説明した。
長い廊を数人の童《わらは》が続いて来る。
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日ずかしです。お召しあがり下さいませう。
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改つて、簡単な饗応の挨拶をした。まらうどに、早く酒を献じなさいと言つてゐる間に、美しい※[#「女+綵のつくり」、97−12]女《うねめ》が、盃を額より高く捧げて出た。
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をゝ、それだけ受けて頂けばよい。舞ひぶりを一つ見て貰ひなさい。
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家持は、何を考へても、先を越す敏感な主人に対して、唯虚心で居るより外はなかつた。
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うねめ[#「うねめ」に傍点]は、大伴の氏上へもまだ下さらないのだつたね。藤原では御存知でもあらうが、先例が早くからあつて、淡海公が近江[#(ノ)]宮から頂戴した故事で、頂く習慣になつて居ります。
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時々こんな畏まつたもの言ひもまじへた。兵部大輔は、自身の語づかひにも、初中終気扱ひをせねばならなかつた。
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氏上もな、身が執《しふ》心で、兄公殿を太宰府へ追ひまくつて、後に据らうとするのだと言ふ奴があるといの――。やつぱり「奴はやつこどち」だなあ。さう思ふよ。時に女姪《めひ》の姫だが――。
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さすがの聡明第一の紫微内相も、酒の量が少かつた。其が今日は幾分行けたと見えて、話が循環して来た。家持は、一度はぐらかされた緒《いと》口にとりついた気で、
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横佩|墻《かき》内の郎女は、どうなるのでせう。宮・社・寺、どちらに行つても、神さびた一生。あつたら惜しいものだな。
気にするな。気にするな。気にしたとて、どう出来るものか。此は――もう、人間の手へは戻らないかも知れんぞ。
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末は独り言になつて居た。さうして、急に考へ込んで行つた。池へ落した水音は、未《ひつじ》がさがると、寒々と聞えて来る。
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早く、躑躅の照る時分になつてくれないかなあ。一年中で、この庭の一等よい時が待ちどほしい。
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紫微内相藤原仲麻呂の声は、若々しい欲望の外、何の響きをもまじへて居なかつた。
十
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つた つた つた
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郎女は、夜が更けると、一向《ひたすら》、あの音の歩み寄つて来るのを待つやうになつた。
をとゝひよりは昨日、昨日よりは今日といふ風に、其跫音が間遠になつて行き、此頃はふつ[#「ふつ」に傍点]に音せぬやうになつた。その氷の山に対うて居るやうな骨の疼く戦慄の快感、其が失せて行くのを虞れるやうに、姫は夜毎、鶏のうたひ出すまでは殆ど祈る心で待ち続けて居た。
絶望のまゝ、幾晩も仰ぎ寝たきりで目は昼よりも寤《さ》めて居た。其間に起つた夜の間の現象には、一切心が留らなかつた。
現にあれほど、郎女の心を有頂天に引き上げた頂板《つし》の面《おもて》の光輪にすら、明盲《あきじ》ひのやうに、注意は惹かれなくなつた。こゝに来て、疾《と》くに七日は過ぎ、十日・半月になつた。山も野も春のけしきが整うて居た。野茨の花のやうだつた小桜が散り過ぎて、其に次ぐ山桜が谷から峰かけて、断続しながら咲いてゐるのも見える。麦生は驚くばかり伸び、里人の野為事に出る姿が、終日動いてゐる。
都から来た人たちの中、何時までこの山陰に春を起き臥すことかと侘びる者が殖えて行つた。廬堂の近くに、板屋を掘り立てゝ、かう長びくと思はなかつたし、まだどれだけ続くかも知れぬ此生活に、家ある者は妻子に会ふことばかりを考へた。親に養はれる者は、家の父母の外にも、隠れた恋人を思ふ心が切々として来るのである。女たちは、かうした場合にも、平気に近い感情で居られる長い暮しの習はしに馴れて、何かと為事を考へてはして居る。女方の小屋は、男のとは別に、もつと廬に接して建てられて居た。
身狭乳母《むさのおも》の思ひやりから、男たちの多くは、唯さへ小人数な奈良の御館《みたち》の番に行けと言つて還され、長老《おとな》一人の外は、唯|雑用《ざふよう》をする童と奴隷《やつこ》位しか残らなかつた。
乳母《おも》や若人たちも、薄々は帳台の中で夜を久しく起きてゐる郎女の様子を感じ出して居た。でも、なぜさう夜深く溜め息ついたり、うなされたりするか、知る筈はない昔気質の女たちである。
やはり、郎女の魂《たま》があくがれ出て、心が空しくなつて居るものと、単純に考へて居る。ある女は、魂ごひの為に、山尋ねの咒術《おこなひ》をして見たらどうだらうと言つた。
乳母は、一口に言ひ消した。姫様、当麻に御安著なされた其夜、奈良の御館へ計らはずに、私にした当麻真人《たぎままひと》の家人たちの山尋ねが、いけない結果を呼んだのだ。当麻語部とか謂つた蠱物《まじもの》使ひのやうな婆が出しやばつての差配が、こんな事を惹き起したのだ。
その節、山の峠《たわ》の塚であつた不思議は、噂になつて、この貴人《うまびと》の一家の者にも知れ渡つて居た。あらぬ者の魂を呼び出して郎女様におつけ申しあげたに違ひない。もう/\軽はずみな咒術《おこなひ》は思ひとまることにしよう。かうして魂《たま》を失はれた処の近くにさへ居れば、何時かは、元のお身になり戻り遊されることだらう。こんな風に考へて、乳母は唯気長にせよと女たちを諭し/\した。こんな事をして居る中に、又一月も過ぎて、桜の後、暫らく寂しかつた山に、躑躅が燃え立つた。足も行かれぬ崖の上や巌の腹などに、一|群《むら》々々咲いて居るのが、山の春は今だ、と言はぬばかりである。
ある日は、山へ/\と里の娘ばかりが上つて行くのを見た。凡数十人の若い女が、何処で宿つたのか、其次の日、てんでに赤い山の花を髪にかざして降りて来た。
どや/\と廬の前を通る時、皆頭をさげて行つた。其中の二三人が、つくねんとして暮す若人たちの慰みに呼び入れられて、板屋の端へ来た。当麻の田居も、今は苗代時である。やがては、田植ゑをする。其時は見に出やしやれ。こんな身でも、其時はずんと女子ぶりが上るぞなと笑ふ者もあつた。
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こゝの田居の中で、植ゑ初めの田は、腰折れ田と言ふ都までも聞えた物語のある田ぢやげな。
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若人たちは、又例の蠱物姥《まじものうば》の古語りであらうとまぜ返す。ともあれ、かうして山へ上つた娘だけが、今年の田の早処女《さをとめ》に当ります。其しるしが此ぢやと、大事さうに頭の躑躅に触れて見せた。もつと変つた話を聞かせぬかえと誘はれて、身分に高下はあつても、同じ若い同士だから、色々な田舎咄をして行つた。其を後《のち》に乳母《おも》たちが聴いて気になることがあつた。山ごもりして居ると、小屋の上の崖をつた/\[#「つた/\」に傍点]と踏み下りて来る者がある。ようべ、真夜中のことである。一様にうなされて苦しい息をついてゐると、音はそのまゝ、真直に下へ降つて行つた。どどどと云ふ響き。――ちようど其が、此廬堂の真上の高処《たか》に当つて居た。こんな処に道はない筈ぢやがと、今朝起きぬけに見ると、索の定《ぢやう》[#「索の定《ぢやう》」はママ]、赤土の大崩崖《おほなぎ》。ようべの音は音ばかりで、ちつとも痕はなかつた。
其で思ひ合せられるのは、此頃ちよく/\、子から丑の間に、里から見えるこのあたりの尾の上に光り物がしたり、時ならぬ一時颪《いつときおろし》の凄い唸りが聞えたりする。今までつひ[#「つひ」に傍点]に聞かぬこと。里人は唯かう恐れ謹しんで居るとも、言つた。
こんな話を残して行つて里の娘たちは、苗代田の畔に、めい/\のかざしの躑躅花を挿して帰つて、其ももう寝ついたであらう。夜はひた更けに更けて行く。
昼の恐れのなごりに寝苦しがつて居た女たちも、おびえ疲れに寝入つてしまつた。頭上の崖で、寝鳥の鳴き声がした。郎女は、まどろんだとも思はない目を、ふつと開いた。続いて今一響き、びし[#「びし」に傍点]としたのは、鳥などを翼ぐるめひき裂いたらしい音である。だが其だけで、山は音どころか、物も絶えたやうに、虚しい空間になつた。
郎女の額《ぬか》の上の天井の光りの暈《かさ》が、ほの/″\と白んで来る。明りの隈はあちこちに偏倚《かたよ》つて、光りを竪にくぎつて行く。と見る間に、ぱつと明るくなる。そこに大きな花。真白な菫。その花びらが、幾つにも分けて見せる隈、仏の花の白蓮華《びやくれんげ》と言ふものであらうか。郎女には何とも知れぬ浄らかな花が、車輪のやうに、宙にぱつと開いてゐる。仄暗い蕋の処に、むら/\と雲のやうに動くものがある。黄金の蕋をふりわける。其は髪である。髪の中から匂ひ出た壮厳な顔。閉ぢた眦が憂ひを持つて、見おろして居る。あゝ肩、胸、顕はな肌。――冷え/″\とした白い肌。をゝ おいとほしい。
郎女は、自身の声に目が覚めた。夢から続いて口は尚夢のやうに、語を遂うて居た。
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