死者の書
――初稿版――
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)二上山《ふたかみやま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四五日|前《あと》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「車+端のつくり」、8−2]

 [#…]:返り点
 (例)天子東狃[#二]于沢中[#一]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)出雲[#(ノ)]宿禰

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)きら/\しい
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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死者の書

[#ここから15字下げ]
戊寅、天子東狃[#二]于沢中[#一]。逢[#二]寒疾[#一]。天子舎[#二]于沢中[#一]。盛姫告[#レ]病。天子憐[#レ]之。□沢曰[#二]寒氏[#一]。盛姫求[#レ]飲。天子命[#レ]人取[#レ]漿而給。是曰[#二]壺※[#「車+端のつくり」、8−2][#一]。天子西至[#二]于重壁之台[#一]。盛姫告[#二]病[#一]。□天子哀[#レ]之。是曰[#二]哀次[#一]。天子乃殯[#三]盛姫[#二]于轂丘之廟[#一]。□壬寅、天子命[#レ]哭。(略)……癸卯、大哭。殤祀而載。甲辰、天子南、葬[#二]盛姫於楽池之南[#一]。天子乃命[#二]盛姫□之喪[#一]。視[#二]皇后之葬法[#一]。亦不拝後于諸候。(略)……甲申、天子北、升[#二]大北之※[#「こざとへん+登」、第3水準1−93−64][#一]。而降休[#二]于両栢之下[#一]。天子永念傷心、乃[#二]思淑人盛姫[#一]。於[#レ]是流涕。七萃之士※[#「くさかんむり/要」、8−7]予上[#二]諫天子[#一]曰、自[#レ]古有[#レ]死有[#レ]生、豈独淑人。天子不[#レ]楽出[#二]於永思[#一]。永思有[#レ]益、莫[#レ]忘[#二]其新[#一]。天子哀[#レ]之。乃又流涕。是日輟。己未。乙酉。天子西絶[#二]※[#「金+研のつくり」、8−9]※[#「こざとへん+登」、第3水準1−93−64][#一]。乃遂西南。戊子、至[#二]于塩[#一]己丑。天子南登[#二]于薄山※[#「穴かんむり/眞」、8−10]※[#「車+令」、8−10]之※[#「こざとへん+登」、第3水準1−93−64][#一]。乃宿[#二]于虞[#一]。庚申、天子南征。吉日辛卯、天子入[#二]于南※[#「酋+おおざと」、8−10][#一]。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]穆天子伝


       一

鄭門にはひると、俄かに松風が吹きあてるやうに響いた。
一町も先に、堂伽藍が固まつて見える。――そこまで、ずつと砂地である。白い地面に、広い葉が青いまゝでちらばつて居るのは、朴の葉だ。
まともに、寺を圧してつき立つてゐるのが、二上山《ふたかみやま》[#「二上山」は底本では「二山上」]である。其真下に、涅槃仏のやうな姿に寝てゐるのが、麻呂子山だ。其頂がやつと、講堂の屋の棟に乗つてゐるやうにしか見えない。
こんな事を、女の身で知つて居る訳はない。だが俊敏な此旅びとの胸には、其に似たほのかな綜合が出来あがつて居たに違ひない。暫らくの間、懐しさうに薄緑の山色を仰いで居る。其から赤色の激しく光る建て物へ、目を移して行つた。
此寺の落慶供養のあつたのは、つい四五日|前《あと》であつた。まだ其日の喜ばしい騒ぎの響きが、どこかにする様に、麓の村びと等には感じられて居る程なのだ。
山|颪《おろし》に吹き暴《さら》されて、荒草深い山裾の斜面に、万蔵法院《まんざうはふゐん》のみ燈《あかし》の煽られて居たのに目馴れた人たちは、この幸福な転変に目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて居るだらう。此郷近くに田荘《ナクドマル》を持つて、奈良に数代住みついた豪族の一人も、あの日は帰つて来て居た。此は天竺の狐の為わざではないか、其とも、此葛城郡に昔から残つてゐる幻術師《まぼろし》のする迷はしではないかと、廊を踏み鳴し、柱を叩いて見たりしたものである。
数年前の春の初め、野焼きの火が燃えのぼつて来て、唯一宇あつた堂が、忽痕もなくなつた。其でも、寺があつたとも思ひ出さぬほど、微かな昔であつた。
以前もの知らぬ里の女などが、其堂の名に不審を持つた。当麻の村にありながら、山田寺と言つたからである。山の背の河内の国|安宿部《あすかべ》郡の山田谷から移つて二百年、寂しい道場に過ぎなかつた。其でも一時は倶舎《くしや》の寺として、栄えたこともあつたと伝へて居る。
飛鳥の御世の、貴い御方が、此寺の本尊を夢に見られて、おん子を遣され、堂を修理し、僧坊が建てさせられて居た。追追、境内になる土地の縄張りの進んでゐる最中、その若い貴人が、急に亡くなられた。都からお使ひが見えて、其ほど因縁の深い土地だから、墓はそのまゝ其村に築くがよいとのことであつた。其お墓のあるのが、あの麻呂子山だと言ふ。其縁を引いて、其郷の山には、後にも貴人をお埋め申すやうな事が起つた。
だが、此は唯、此里の語りの姥の口に、さう伝へられてゐると言ふに過ぎないことであつた。纔《わづ》かに百年、其短い時間も文字に疎い生活には、さながら太古を考へると同じことである。
旅の若い女性《によしやう》は、型摺りの美しい模様をおいた麻衣を著て居る。笠は浅い縁《へり》に、深い縹《はなだ》色の布が、うなじを隠すほどにさがつてゐる。
日は五月、空は梅雨《つゆ》あがりの爽やかな朝である。高原の寺は、人の住む所から、自ら遠く建つて居た。唯凡、百人の僧俗が、寺中に起き伏して居る。其すら、引き続く供養饗宴の疲れで今日はまだ、遅い朝を姿すら見せない。
女は、日を受けてひたすら輝く伽藍の廻りを残りなく歩いた。
寺の南境は、麻呂子山の裾から、東へ出てゐる長い崎が劃つて居た。其中腹と、東の鼻とに、西塔、東塔が立つて居る。丘陵の道をうねり乍ら登つた旅びとは、東塔の下に出た。
其でも薄霧のかゝつたやうに、雨の後の水気の立つて居た大和の野は、すつかり澄みきつた。
若昼のきら/\しい景色になつて居る。左手の目の下に集中して見える丘陵は、傍岡《かたをか》である。葛城川もほの/″\と北へ流れて行く。平原の真中に旅笠を伏せたやうに見える。遠い小山は、耳無《みゝなし》の山である。其右に高くつゝ立つてゐる深緑は畝傍山。更に遠く日を受けてきらつく池は、埴安《はにやす》の水ではないか。其側に平たい背を見せたのは、聞えた香具《かぐ》山なのだらう。旅の女は、山々の姿を辿つてゐる。香具山をあれだと考へた時、あの下が、若い父母の育つた、其から叔父叔母、又一族の人々の行き来したことのある藤原の里なのだ。
もう此上は見えぬと知れて居ても、ひとりでに爪先立てゝ伸び上る気持が出て来る。
香具山の南の裾に輝く瓦舎《かはらや》は、大官大寺《だいくわんだいじ》に違ひない。其から更にまつ直に、山と山との間に薄く霞んでゐるのが、飛鳥の村なのであらう。祖父も祖々父《ひぢゝ》も其父も皆あの辺りで生ひ立つたのだ。
この国の女に生れて、一足も女部屋《をんなべや》を出ないことを美徳として時代に居る身は、親の里も祖先の土も、まだ踏みも知らない。あの陽炎《かげらふ》の立つてゐる平原を、此足で隅から隅まで歩いて見たい。かう彼|女性《によしやう》は思つてゐる。だが其よりも大事なことは、此|郎女《いらつめ》――貴女は、昨日の暮れ方、奈良の家を出て、こゝまで歩いて来てゐるのである。其も唯のひとりであつた。
家を出る時、瞬間心を掠めた――父が案じるだらうと言ふ考へも、もう気にはかゝらなくなつて居る。乳母があわて求めるだらうと言ふ心が起つて来ても、却てほのかなこみあげ笑ひを誘ふ位の事になつてゐる。
山はづつしりとおちつき、野はおだやかに畝つて居る。こゝに居て、何の物思ひがあらう。この貴い娘は、やがて後をふり向いて、山のなぞへについて首をあげて行つた。
二上山。この山を仰ぐ時の言ひ知らぬ胸騒ぎ。藤原飛鳥の里々山々を眺めて覚えた、今の先の心とは、すつかり違つた懐しさ。旅の郎女は、脇目も触らず、山を仰いでゐる。さうして静かな思ひが、満悦に充ちて来るのを覚えた。昔びとは、確実な表現を知らぬ。だが謂はゞ――平野の里に感じた喜びは、過去|生《しやう》に対するものであり、今此山を臨み見ての驚きは未来を思ふ心躍りであつたと謂へよう。
塔はまだ厳重にやらひ[#「やらひ」に傍点]を組んで人の立ち入りを禁《いまし》めてあつた。でも拘泥することを教へられて居ない姫は、何時の間にか塔の一重の欄干によりかゝつて居る自分に気がついた。
さうして、しみ/″\と山に見入つて居る。山と自分とに繋《いまし》つてゐる深い交渉を、又くり返し考へはじめたのである。

郎女の家は、奈良東城の右京二条第七坊にある。祖父武智麻呂の亡くなつて後、父が移り住んでからも、大分の年になる。父は横佩《よこはき》の大将《だいしやう》と謂はれる程、一ふりの大刀のさげ方にも、工夫を凝らさずには居られぬだて[#「だて」に傍点]者《もの》であつた。なみ[#「なみ」に傍点]の人の竪にさげて佩く大刀を横に吊る佩き方を案出した人である。新しい奈良の都の住民は、まだかうした官吏としての豪華な服装を趣向《この》むまでに到つて居ない頃、若い姫の父は、近代の時装に思ひを凝して居た。古い留学生や、新来の帰化僧などを訪問して尋ねることも張文成などの新作の物語などは、問題にはして居なかつた。
さうした濶達なやまとごゝろを赴くまゝに伸して居る間に、才《さえ》優れた族人が、彼を乗り越しかけて居た。姫には叔父、彼――豊成にはさしつぎの弟仲麻呂である。
その父君も、今は筑紫に居る。家族の半以上は、太宰帥のはな/″\しい生活の装ひとして連れて行つてしまつた。奈良の家は、とりわけ寂しくなつて居る。
宮廷から賜つて居る※[#「にんべん+慊のつくり」、第3水準1−14−36]従《とねり》は、大貴族の家々の門地の高さを示すものとして、美々しく著飾らして出入させたものだが、其すら太宰府へついて行つてしまつた。
寂かな屋敷には物音も聞えて来る時すら多かつた。この家の女部屋は、日あたりに疎い北の屋の西側に小さな蔀戸《しとみど》があつて、其をつきあげると、方一間位な※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]になるやうに出来てゐる。さうして其内側には夏冬なしに簾が垂れてあつて、外からの隙見を防いだ。
さうして其|外《そと》は、広い家の外廓になつて居て、大炊殿《おほいどの》もあれば、火焼《ひた》き屋なども、下人の住ひに近い処に立つてゐる。苑《その》と言はれる菜畠やちよつとした果樹園らしいものが、女部屋の窓から見える唯一の風景であつた。
武智麻呂時代から、此屋敷のことを、世間では、南家と呼び慣はして来てゐる。此頃になつて、仲麻呂の威勢が高まつて来たので、何となく其古い通称は人の口から薄れて、其に替る称へが行はれ出したのである。二京七坊をすつかり占めた大屋敷を、一垣内《ひとかきつ》――一字《ひとあざ》と見倣して、横佩墻内《よこはきかきつ》と言ふ者が著しく殖えて来たのである。
太宰府からは、この頃久しく音づれがなかつた。其でも、半年目に都へ戻つて来た家の子は、一車に積み余るほどな家づとを、家の貴公子たち殊に、姫にと言つて持ち還つて来た。
山国の狭い平野に、一代々々都遷しがあつた長い歴史の後、こゝ数十年やつと一つ処に落ちついた奈良の都は、其でもまだ、なか/\整ふまでにはなつて居なかつた。
官庁や、大寺が、によつきり立つてゐる外は、貴族の屋敷が、処々むやみに面積を拡げて、板屋や瓦屋が、交《まじ》り/\に続いてゐる。其外は、広い水田と、畠と、荒蕪地の間に、庶民の家が、ちらばつて見えるだけであつた。兎や、狐が大路小路を駆け廻る様なことは、あたり前である。つい此頃も、朱雀大路《しゆじやくおほぢ》の植ゑ木の梢を、夜になると、※[#「鼬」
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