。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい、あの萱原、そこの矮叢《ぼさ》から首がつき出て居た。皆が大きな喚《おら》び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚《わめ》き声だつた。
其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと、待てよ。其は何だか、一目惚れの女の哭き声だつた気がする。――をゝ、あれが耳面刀自だ。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は急に締めあげられるやうな刹那を通つた気がした。俄かに楽な広い世間に出たやうな感じだつた。さうして、ほんの暫らく、ふつと[#「ふつと」に傍点]さう考へたきりで、空も見ない。土も見ない。花や木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれだか、はつきり訣らぬものになつてしまつたのだ。
あゝ其時から、おれ自身、このおれを忘れてしまつたのだ。
[#ここで字下げ終わり]
足の踝《くるぶし》が、膝の膕《ひつかゞみ》が、腰のつがひ[#「つがひ」に傍点]が、頸のつけ根が、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]が、盆の窪が――と、段々上つて来るひよめきの
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