宰、帥豊成、其|第一嬢子《だいいちぢやうし》なる姫である。屋敷から一歩はおろか、女部屋から膝行《ゐざ》り出ることすら、たまさかにもせない郎女《いらつめ》のことだ。順道《じゆんたう》なれば、今頃は既に、藤原の氏神河内の枚岡《ひらをか》の御神《おんかみ》か、春日の御社《みやしろ》に仕へてゐるはずである。家に居ても、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き伏しゝてゐる人である。世間の事は、何一つ聞き知りも、見知りもせぬやうに育てられて来た。
寺と言ふ物が、奈良の内外にも幾つとあつて、横佩|墻内《かきつ》と讃《たゝ》へられてゐる屋敷よりも、もつと広大なものだとは聞いて居た。さうでなくても、経文の上に見る浄土の荘厳《じやうごん》をうつした其建て物の様には、想像しないではなかつた。だが目《ま》のあたり見る尊さは讃歎の声すら立たなかつた。
之に似た驚きの経験を、曾て一度したことがあつた。姫は今其を思ひ起して居る。簡素と豪奢との違ひこそあれ、歓喜に撲たれた心地は印象深く残つてゐる。
今の 太上天皇様がまだ宮廷の御あるじで居させられた頃、八歳《はつさい》の南家の郎女《いらつめ》
前へ 次へ
全148ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング